外資系リーマンのゆるコミット

必ずやります、たぶんそのうち

先輩命令でやらされた後輩のナンパが成功して場がしらけた話

後輩が先輩からイジられたり、無茶ぶりされたりするのは、我が国の伝統的な慣習と言える。

全国の後輩クン達は、外見やキャラクターを笑いのネタにされることもあれば、飲み会で大量の酒を飲まされたり、一発芸をやらされたりして日々悪戦苦闘する。

このような「後輩いじり」の定番として、「後輩や若手に女の子をナンパさせる」というものがある。

お酒の席や、その後の帰り道などで悪酔いした先輩軍団が、「おい、お前あの子達に声かけてこい!」と仕事の
勢いさながらの指令を出し、後輩はしぶしぶ玉砕覚悟で突進していく。

後輩クンが戸惑いながらアタックする姿を見て、歳を重ねて、すでにナンパする機会や度胸を失った先輩達は、面白さ半分、優越感半分で、その光景を頬をゆるめながら見つめる。

一方後輩クンとしては、いくら先輩の命令とはいえ、女の子達の前でカッコ悪い所は見せたくない。

幸い、外見やトークにはそこそこ自信はある。

仕事ではおっさん達の下僕として毎日コキ使われているかもしれないが、若さとルックスではあいつらには負けやし ない、という自負もある。

そんなプライド、闘争心を胸に秘め、突撃!

 

トークを頑張る、愛嬌を振舞う、女の子を褒める、ギャグを飛ばす!

 結果…

見事、LINEをゲット!!!

なんなら、その場で飲みに行けそうな雰囲気すらある。

「勝った!俺は期待に応え、成果を上げたのだ!」

達成感と満足感で一気にテンションが上がる後輩クン。

後ろを振り返ればそこには先輩達の目。

結果を出して戻った自分に、賛辞と賞賛の言葉が浴びせられるに違いない。

そう、初めて仕事で大きな商談をまとめたあの時のように。

期待に胸を膨らませる後輩クン。

早足で先輩軍団の輪に帰還し、「あの子たち、一緒に飲んでもいいって言ってますがどうしますか?」と声高らかに成果を告げ、輝いた目をして先輩たちの返答を待つ。

ところが、先輩たちの表情は明らかに曇っている。

さっきまでのバカ騒ぎが嘘のようにしらけている。

そう、先輩たちは別に後輩クンのナンパが成功することなど望んでいなかったのだ。

あっけなくフラれて、恥をかいて、戻ってきた後輩をいじり倒す。

それが彼らが求めていた結末だった。

「今日はそんな感じじゃないからいーでしょ。お前行って来いよ」

そっけなく言う先輩軍団の一人。

結局、後輩クンも気まずくなってその場を静かに後にした。


これは先日会社の飲み会帰りに、実際にあった出来事である。

男というのは実に難しい。

後輩は確かにかわいいし、自分が仕事を教えた後輩が仕事で成果を上げている姿を見るのは嬉しいものだ。

しかし、どこかでライバル心もある。

仕事だって、今は自分の方が出来るとは分かっていても、いつ追い抜かれるかは分からない。

ましてやプライベート、特に対女性関係において、男性的な魅力としては年々外見も勢いも衰えてる自分より、後輩クンの方が若い女の子にモテることもあるだろう。

その事実、現実を少しでも見せつけられたようなこの一件は、先輩軍団にとって全く面白いおかしい物では無かったのである。

そうでなくとも、後輩をいじるという目的でナンパをさせているのに、彼がモテてしまっては元も子も無い、つまらないだけだ。

女性の嫉妬は怖いとよく言うが、男の嫉妬も中々のものである。

実際に、女性にモテるイケメンが出世しにくいという話も聞いたことがあるが、これは何も女性関係に限った話では無く、仕事が出来すぎることによって上から疎まれることも会社ではよくある話だ。

ここで、全ての後輩クン達に伝えたいのは、「後輩たるもの常に道化であれ」ということだ。

本当は、先輩軍団より君たちの方が、女性との出会いも豊富で、女性から見て魅力もあるのかもしれない。

しかしそんな事実を先輩の前で突きつけるようなことはあってはならない。

後輩たるもの、原則は先輩や上司を立て、常に彼らに満足感を提供しなければならないのだ。

特に、若い時からあまり女性に縁が無かったような人に対してはなおさらである。

昔からモテなかった。そのコンプレックスを逆なでするような後輩に、愛情を注げるわけはない。

男はプライドの生き物である。

そしてそのプライドは、あまりにも小さなことで、あっけなく破綻する。

このことは特に会社の上下関係において気を付けなければならない、極めて重要な真理だ。

「後輩のナンパが成功したら場がしらけた一件」はそんなことを改めて実感した一幕だった。

お金があってこそ、お金で買えない物の価値に気づくジレンマ

人生にはある程度のお金は必要だが、お金で買えない物こそが人生にとってより重要である。

こんな当たり前のことに気が付くまで、かなり時間がかかった。

世の中、お金では買えない大切なものが実に多い。

家族や友人との人間関係や、持続的な健康、やりがいのある仕事に、没頭できる趣味。

お金で買えないものこそが人生に幸福をもたらしてくれると今では強く思う。

特に良好な人間関係は、豊かな人生を送るために極めて重要で、それを裏付けるこんな研究も世界で行われている。

(from TED TALK)

www.ted.com

 

自分が、お金で買えない物が重要だと思えるようになったのは、皮肉にも、ある程度お金が稼げるようになったからだ。

別にいやらしい自慢をするつもりではなく、運良く仕事で成果を出すことが出来て、その年ばかりはそれなりの収入を得られたことがある。

外資系ならではの一過性の稼ぎなので、将来の保証など全くないが、とにもかくにもある程度のお金を得ることが出来た。

そうしてお金を手にすることによって、お金で実現できることなど、実はたいしたことでは無いと気が付いてしまったのだ。

これは自分にとって非常に幸運なことだった。

何しろ、ある程度のお金を得ることによって、お金の呪縛から解き放たれることが出来たからだ。

仕事を必死に頑張ってきて、ある程度お金を稼げるようになると、昔から欲しい欲しいと憧れていたモノやサービスを手にすることが出来るようになった。

高級ブランドのスーツや時計、ハイスペックのIT機器や家電製品、有名店の豪華ディナーに海外リゾート地でのバカンス。

いずれも学生や社会人になり立ての頃は、勝ち組の象徴としていつかは実現したいと夢描いていた贅沢を、幸運にも概ね経験することが出来た。

しかしそれらは、一度手にしてみるとほとんどが、自分にとってさほど重要でないものばかりだった。

一瞬の満足感や喜びは得られるものの、長く深い幸福感をそこから得られることは無かった。

むしろ、生活レベルが上がり贅沢を経験すればするほど、それに対しての有難みや喜びは薄れていくばかりだ。

確かにお金はあるに越したことは無い。

快適な住居の中で便利な生活をし、美味しい物を食べ、旅行や観光で経験の幅を広げて、家族にも余裕のある暮らしを提供できる。

お金があることによって、日々の生活が充実することは明らかだ。

しかし一方で、お金で得られる人生の満足感なんてものはたかが知れている。

お金は、所詮モノやサービスを消費するための手段だ。

モノやサービスは、短期的な快楽や利便性を得るためには必要だが、それらがあれば人生が全て満たされるというものでも決して無い。

お金さえあれば、絶対的に幸せな人生が送れるというのは間違いだ。

例えいくらお金があったとしても、健康や、家族や、友人や、熱中できる仕事や趣味といった「お金では得られない物」が欠けている人生は不幸だ。

反対に、例えお金がそこまで多くは無かったとしても、これらの重要な物を持ってさえいれば、強い満足感を得られることは可能だと思う。

それくらい、「お金で得られない物」は非常に重要だ。

にもかかわらず、お金が放つ魔力は、その事実を人から忘れさせるほどにあまりにも強い。

人は往々にして、お金を得るために、「お金で得られない物」を犠牲にしてしまう。

収入を得るために仕事に没頭して家族との時間を犠牲にしたり、お金のために友人を裏切ったりなんていう話は日常茶飯事だ。

お金への呪縛が、時に人を不幸にしてしまう。

そして皮肉なことに、お金の呪縛から解き離たれるための一番有効な方法は、必要十分なお金を実際に得ることだ。

お金を得て、お金でやりたいことをおおよそやり尽くし、欲求を解消しない限り、中々お金の魔力からは逃れられない。

そうしてお金に対して過度な幻想や期待を持たなくなることによって、お金で買えない物がより輝いて見えるものだ。

お金を著しく稼いだ経営者は社会貢献に注力するようになり、また富裕層の家に育った子供は、お金より自身の信念のために生きるという。

お金を得ることによってこそ、見えてくる景色というものもそこにはあるのだろう。

彼らのような階層の人達とは比べ物にはならないが、幸運にも自分が満足できるだけの収入を一時的にでも得ることが出来た。

そこで見えてきた、お金で買えないものの価値をよく頭に刻みつけて、優先順位を間違えないように人生を送りたいものである。

新聞記事のスクラップはどうしても時代遅れの習慣に思えてしまう

先日、出張先に向かう新幹線の車中で「新聞記事のスクラップを張り集めたノート」を大事そうに見返している40代半ばと見られるビジネスマンがいて、衝撃を受けた。

この時代にまだそんな習慣を持っている人がいることに驚いたと同時に、失礼な話ではあるが、その方のITスキルの低さ、変化対応力の無さを勝手に推し量ってしまった。


私も社会人なり立ての頃、上司や先輩から「新聞記事のスクラップ」を薦められたことがある。

ビジネスマン御用達である「日経新聞」から重要な記事、興味を持ったトピックを切り抜いて保管し、後で見返して役立てるという自己啓発とも言える習慣だ。

当時は私も、せっせと新聞を切り抜いてファイルに保管しては、気まぐれにそれを眺めたり、読み返したりしていた時期があった。

あれから十数年。

今や周りで「日経新聞をスクラップしている」なんていう話を聞くことはなくなった。

Webコンテンツの充実やスマホの普及で、新聞に頼らずとも様々な方法で情報を得たり、保存しておくことが可能になったからだ。

もはや、新聞を紙で読んでいる人も少なくなってきたし、ましてやその記事をわざわざ切り抜いて保管している人なんて絶滅危惧種に近いんじゃないか。

もちろん、全く新聞を読まないより、新聞をしっかり読み込んで、その記事を何度も見返すような人の方が、経済やビジネスへの感度や意欲は高いのかもしれない。

また、切り抜き記事を集めることで、コレクション願望が満たされたり、私には想像もつかない点でメリットがあるのかもしれない。実際、この時代だからこそあえてアナログのスクラップを推奨する経済人、著名人もいるようだ。

しかし、今のIT全盛時代における「新聞のスクラップ」は、見る人が見れば「ITリテラシーが低い」「効率が悪い」と思われても仕方のない行為だ。

ビジネスの情報収集や勉強のやり方は、個人のやりやすいように自由にするべきだが、いまどき紙の新聞をノートに張り集めることが「効率的」で「効果的」なものだとはどうしても思えない。

紙のスクラップをコツコツ集めている姿は、他に便利で効率的な情報整理のやり方を「知らない」か、その方法を「使いこなせていない」ように見えてしまう。

未だに音楽をMDプレイヤーで聞いていたり、携帯電話を持っていなかったりしたら驚かれるように、技術やITの進化には現代人として最低限対応していかなければ、変化に疎い時代遅れの人とみなされる。

そして、個人的にはあまりこういう人たちと仕事をしたいとは思わない。

もし、シニアのビジネスマンでこのような昔ながらの習慣を続けている人がいたら、私のようなひねくれた見方をする人間もいることを知って頂きたいし、たとえ50代、60代でもipadKindleEvernoteDropboxを使いこなしている人がいることを意識してもいいと思う。

 

科学や技術の進歩と共に、時代は変化している。

昔ながらの方法が時に有効なこともあるが、それにこだわってばかりでは人間は進化しない。

石が無くなったから石器時代が終わったわけではない。

石が残っているからといって、大事に石器を使っていてはいつまでも原始人のままだ。

全てを先端の技術で固める必要は無いが、大きな時代の変化、技術の進歩には何歳になっても対応していきたいものである。

プライドが高い者同士による、プライドを守るための静かで醜い争い

年末年始、しばらく顔を合わせていなかった友人たちと久しぶりに再会する機会が多かったが、そこで何度か「プライドを守るための戦い」を目にした。

人は自分と他人を比べたがる生き物だ。

人と比べて劣っていることにはコンプレックスを感じ、人より優れていることには優越感を覚える。

特にプライドが高い者同士が出合えば、互いの尊厳を守るためのハイレベルな戦いが始まる。

男は仕事や、収入や、地位を比較しあい、

女は恋愛や、容姿や、幸福度で競い合う。

「あいつより俺の方が稼いでいて、仕事も充実している」とか、

「いつまでも独り身のあの子と比べて、私は結婚もして子供もいて幸せだ」というように、

たとえ意識せずとも他人と自分を比べている。

相手とあまり付き合いが無い場合はもちろん、親しい友人の間であってもそれは同じだ。

親しい友人の間であれば、いかに関係を崩さずにプライドを満たすかという「静かで醜い」争いが繰り広げられていく。

 

そこで、冒頭のくだりだ。

年末の、とある飲み会は大学時代の友人たち、男女数人でのものだった。

男は業種や規模は違えど、みなそれなりの仕事に就き、女は仕事大好きのOLや専業主婦まで様々な道を歩んでいた。

お酒もほどよく回ったところで、ある友人男性Aが、

「俺、今年仲間と起業してさ、六本木にオフィス構えてITベンチャーやってる」

と仕事の近況を報告し始めた。

その口ぶりには、リスクを取り会社を興した者特有の、誇りと自信が感じられた。

Aの仕事内容を少し聞いた後、隣に座っていた大手金融機関に勤める友人男性Bが、

「すげーじゃん!起業は中々リスクがあって大変だよな。俺、ITベンチャーやってる社長何人か知ってるから誰か紹介しよっか?」

という業界人脈をアピールしつつの、やや上から目線的なサポート提供を申し出たのだ。

Aは、話の腰を折られたのが少し不満そうに、「おーそうだな。まあ今のとこ仕事は好調だし、サラリーマン時代よりも自由にやれて楽しいよ。俺も社長の知り合いはそこそこいるから、またなんかあった時頼むわ」

と、会社勤めをあえて「サラリーマン」と表現しながら、そっけない態度で対応した。

束の間、そこに微妙な空気が漂ったのを男たちは敏感に察知した。

そして誰が始めるとも無く、すぐさま学生時代のバカ話、女性関連の下世話な話題へとトークの舵が切られていった。

 

みんなそれぞれ、自分の仕事にはプライドを持っている。

一流企業に入ったり、起業したりするような奴ならなおさらだ。

そのプライドを傷つけたり否定することは、例え友人同士でも、いや友人だからこそあってはならないのだ。

友人関係を円満にするためには、本当の争いになる前に戦いを避けることが必要だ。

男たちはそのことを十分わかっている。

成果を誇り、アピールしたいが、衝突は避けたい。

そんな自尊心と気遣いの合間で男たちの会話は絶妙なバランスを保っているのだった。

 

一方で、女性たちは「独身組」と「結婚組」で明らかに立場が分かれて、そこにも確かに「プライドを守る戦い」が起きていた。

友人女性Cは、渋谷の某Web関係の会社に勤めている独身キャリアウーマンだ。

仕事は芸能界とも関わりがあり、なかなか華やかなモノらしい。

Cは「最近立ち上げたサービスのプレスで、ジャニーズと仕事したんだけど○○って実物は足が短くて、全然かっこよくなかったよ」

と、話題性のあるトークを振り込んだ。

芸能人をいじることによって、嫌味の無いよう表現はされているものの、その口ぶりは自分が華やかな仕事をしているという「ドヤ感」に溢れていたものだった。

Cのオブラートな「仕事アピール」に、積極的に感嘆の声や相槌を打つ女子たち。

たいして興味が無い人もいただろうが、相手の話を上手く受け入れる(ふりをする)女性のスキルには脱帽だ。

Cの話が一通り終わった後、友人女性Dが口を開く。

彼女は2年前に結婚して仕事を辞め、今は一児のママである。

「華やかな仕事で楽しそうー!私なんて結婚してから旦那と子供の相手ばっかりで大変だよ。仕事してた頃が懐かしいなー」

文字で表現すると単なる感想と近況であるが、その口ぶりは「まだ働いてるなんて大変だね」と言わんばかりの嫌味とも取れる言い方にも感じられた。

Dは「でも家族円満で幸せそうじゃーん。まあ私は結婚はまだいいかな。仕事がもう少し落ち着いてからで。」

と、誰も聞いていない自身の結婚願望を補足しながらコメントしていた。

このやりとりは会話の一コマであるが、その後も「独身組」と「結婚組」で、違う立場に分かれた上でのトークが続いた。

そして、そのうちの誰もが、口ではお互いを羨ましい、憧れると言いながらも、本心からその思いを持っているようには感じられなかった。

「こちらの立場の方が幸せだ」という見えない争い、「自分が持っているもの」を頑なに守ろうとする自意識がそこにあったように思えてならなかった。

いや、これについては私があまりにもひねくれたうがった見方をし過ぎているのかもしれない。

本当は、みんな単に思いや感想を口にし、素直に相手の立場を尊重していただけなのかもしれない。

しかし少なくともその場に居合わせた限りは、いわゆる「マウンティング女子」のやりとりを目にした思いに駆られ、背筋が寒くなったのだった。

 

人は「自分が持っているもの」と「相手が持っていないもの」により比較をする。

そこで自分が持っているものに誇りを持ち、プライドを満たそうとする。

「同じものを持っているもの同士」の冷戦に近い争いはいつも身の回りにあるし、

「違うものを持っているもの同士」の互いに大事なものを守り合う戦いもよく見られる。

これらの争いはともすると見苦しくて滑稽なものであるが、プライドや自尊心を持つことは人間ならではの個性だ。

そこから繰り広げられる人間模様は、なかなか面白いし、プライドが活動のエネルギーになることもあるから捨てたもんじゃない。

人はこれからも比較をして、互いに競い続ける生き物なんだろう。

そんな哲学に浸った年の瀬。

私も小さくて不毛なプライドを大切にして今年も頑張って行こうと思う。

Facebookはもはや一部のKYのためのツールに成り下がっている

Facebookを見て不快感を覚えるようになったのは今に始まったことじゃない。

イタイ男の仕事自慢や既婚女子の子供自慢にはもううんざりだ。

自己アピールや承認欲求を満たすための記事なんて見たくないし、あなたが昼に何を食べたかなんてことも興味がない。

海外行ってきます!という空港での無意味なチェックインもいらないし、政治や経済について持論を語るのは居酒屋でやってほしい。

そもそもFacebookは徐々に、一部のKYの人のためだけのものに成り下がっている気がする。

仲の良い友人たちや好意を持つ同僚、先輩の投稿はFacebookからすっかり消えた。

自分自身も、文句を言いながら時々覗きには行くものの、投稿はここ数年ほとんどしていない。

Facebookに投稿する人が少なくなったのは、Facebookが「普及しすぎたこと」に原因があると思う。

Facebookはあまりに一般的なコミュニティになりすぎて、もはやそこにプライベート感は無くなった。

投稿した情報は、親しい友達だけではなく、飲み会で一度だけ会った人、会社の同僚や上司、取引先や遠い親戚にまで拡散されていく。

こうなると、Facebookはもはや公の場だ。

そこで公開した内容は自分の知人、あらゆる人の目にさらされる。

普通の人はこのような環境で、気軽に投稿することをためらう。

Facebookがユーザーを増やすに連れ、そこで情報を発信する時の息苦しさは増している。

そこで、躊躇なく自己アピールや日々のどうでもいいことを投稿できるのは一部のKYだけだ。

この手の人は元がKYであるがゆえ、周りからの目という意識が無いので、投稿もイタイ内容が増える。

自慢話や中身の無い話を見たら、周りがどう思うかという配慮はそこには無い。

Facebookのユーザーが増えたことで、KYの人しか投稿しないようになり、その投稿がイタイので普通の人はFacebookから距離を置くようになり、益々一部の人しか投稿しなくなるという悪循環にもはやFacebookは陥っているのではないか。

ここまで言うと、だったら使わなきゃいいだけの話だということになるが、少ないとはいえ興味ある投稿があることは確かだし、遠い友人の近況がわかって面白いこともある。

ただ、これらのメリットよりも、KYで汚染された情報に不快感を覚える要素の方が大きくなったなら、その時はFacebookから卒業することになるし、そのタイミングは刻一刻と迫っているように思える。

Facebookは人を繋ぐインフラとしてしばらくは残り続けるだろうが、もはやとっくにクールで魅力的なツールでは無くなっているのかもしれない。

LIXIL社長交代の報道に、日本式の凝り固まった「働き方」への価値観を見た

GEから鳴物入りで入社し、LIXIL統合後の事業見直しや海外展開を中心にしたM&Aなどで、手腕を奮って来た藤森社長の交代が、先日発表された。

 

www.nikkei.com

「LIXILグループは21日、藤森義明社長兼最高経営責任者(CEO、64)が2016年6月に退任し、工具通販大手のMonotaRO(モノタロウ)の瀬戸欣哉会長(55)が社長に就く人事を発表した。藤森氏は米ゼネラル・エレクトリック(GE)出身の「プロ経営者」として注目された人材で、11年に就任した。だが、買収した海外企業との統合作業は道半ばで、十分に結果を出したとは言いがたい中での退任となった。」(記事抜粋)

私自身が外資系の価値観にすっかり染まってしまったためなのか、ここで報道されている記事の表現を見て、「働き方」や「キャリア」における、日本式の凝り固まった考え方を見て取ってしまう。

1.「道半ば」

まず、就任から5年目、このタイミングでの交代を「道半ば」と、まるで責任を放棄したかのような言い回しをされていることだ。

藤森社長のような外資系出身者にとって、5年で次のステップを求めて転職することは別に自然なことである。

例え、結果が十分で無かったとしても、5社もの会社が統合して出来たLIXILを束ねて、リーダシップを取って事業再編をリードしていくのは並大抵のことでは無い。

そんな重責を負いながら、様々な変化を会社にもたらして多くの意思決定を行い、5年を区切りとして次のステップへ進んでいくことに「道半ば」という言葉を使うことには違和感がある。

私が以前いた会社では9ヵ月で社長が変わってしまったこともあり、さすがにここまでいくと「道半ば」どころか「道に足を踏み入れた」レベルでの退任と言えるが、外部から来て5年も社長をやれば期間としては一段落と言えるのではないか。

スティーブジョブズ氏のような創業者が長く経営を担ったり、ルノー出身の日産カルロスゴーン氏のような長期政権も当然見られるが、外資系では3年で社長交代なんてこともザラだ。

今回の退任については、別の報道で「買収失敗の責任を取らされた」とか「元社長の潮田氏が引導を渡した」とか好き勝手なことが書かれているが、藤森社長からすれば5年という期間は「そろそろ頃合い」というタイミングだったのだろう。

 2.「唐突な交代劇」

「唐突な交代劇」という表現もよくわからない。

社長交代に「そろそろ交代しますよー!」なんて事前の告知なんかあるわけない。

トップの人事なんて、外部はもちろん一般社員だって直前まで知らされないのが普通だ。

前ぶれの無い社長交代に対してこのような記事の書き方になってしまうのは、「普通、何か理由が無ければ社長交代はしないものだ」という思い込みが、報道する側に強くあるように思える。

多くの日系大企業の社長交代は、高齢による世代交代か、業績不振や不祥事の責任を取った形の辞職が多いから、そんな固定観念が自然と生まれてしまうだろう。

現場の一般社員だって特に理由が無くとも異動や転勤があるように、社長だって一定期間で交代するケースがあっても別にいい。

その間に、誰もが納得する結果を出せない限りは社長を辞めてはならない、なんてことも別に無い。

ご自身の中で一定の区切りがついたと思えば、次の人に使命を託せばいい話だ。

「結果が出るまでなんとしてもやる!」と本人のプライドでポストに居座られて、時に迷惑な場合だってある。

例えば、スポーツの世界でもプロ野球の監督を5年続ければ長い方になるし、W杯の日本代表監督は毎回変わっている。

それと一緒で、トップが一定のサイクルで変わるのはむしろ会社としてワンマン経営に陥っていない証拠でもある。

3.「プロ経営者」

これは藤森社長に限った話では無いが、特にMBAホルダーの外資経験者を「プロ経営者」と一括りにして表現することもしっくりこない。

藤森社長の場合は自称しているふしもあるので、一方的な報道とは言えないかもしれないが、本来、経営者に素人もプロも無いのではないか。

外部から来た人材をプロと呼び、生え抜き社長をプロでないとするなら、生え抜きの経営者に失礼な話だし、「プロ」という言葉を中途経営者への皮肉まじりに使うとしたら、それこそ良い表現とは言えない。 

もし「プロ」という言葉を文字通り「専門家」という意味で使うとしても、社長業を渡り歩く人材が、生え抜き経営者よりも経営の「専門家」であるかというと、必ずしもそうではない。

経営者としての能力に、生え抜きか中途かは関係が無いはずだ。

そもそも創業家の二代目や起業家を別にすれば、中途入社で社長に就任した人も、何もある日突然経営者になったわけでは無い。

社長就任の前に、別の会社でマネージャー、部門責任者と役職を重ねてトップに上り詰めたわけで、その意味では生え抜きの社長とキャリアのプロセスは変わらない。

様々な会社で社長業をこなせば経験の幅は増えるであろうが、それを持って「プロ」か「プロでないか」と論じることは出来ない。

ましてやMBAホルダーだからと言って経営の「プロ」なんてことは言えるはずがない。

 「プロ経営者」等という表現は、普通は生え抜きがトップになるべきだ、という古い慣習や思い込みに縛られたレッテル張りと言えるのだ。

 古くからの慣習に凝り固まった「働き方」への価値観にはうんざりだ

5年での社長交代を「道半ば」の「唐突な交代劇」と表現し、外部から来た社長を「プロ経営者」と括る報道から、働き方への凝り固まった価値観を見て取れる。

 もういい加減、「一つの場所で長く働き続けることが美徳だ」とか「責任を果たすまで役割を全うすべきだ」という古くからの価値観に基づいて働き方を論じるのはやめにしないか。

 元はと言えば、日本の労働市場があまりにも硬直的であることに問題がある。

 今よりもっと会社同士での人材の行き来が活発になっていいし、自分の意思で自由に仕事を選べるようになるべきだ。

 もちろん長く働くことを選びたい人はそうすればいいが、そうでない場合に、今の日本はあまりにも選択肢が少なすぎる。

 一日も早く、他社でキャリアを積んでトップに立った人を「プロ経営者」などと区別して呼ぶことのない、柔軟な働き方を良しとする考え方へと日本全体が変わっていってほしいと思う。

 

ITを駆使して起業するヒントは「仲介役」にあり

起業といえばIT、そんなイメージを持つ人は多いと思う。

IT関連のビジネスは、その気になればパソコン1台から始めることが可能で、最初に大きな元手を必要としないため、学生や20代の若者が起業するための手段としてはうってつけだ。

IT以外の手段で起業がなされるケースももちろん多いが、ほとんどの産業においてメジャーな大企業が市場を支配している中で、一から新しいビジネスを作り上げていくのは簡単ではない。

お金も経験も無く、いきなり自動車業界や家電業界に参入するのは不可能だし、比較的参入しやすい飲食業や小売店も、とても競争が激しい上に、そのスケールは小さなものになりがちだ。

これらの産業と比較すれば、ITサービスの領域は参入コストが低く、アイディア次第で大きな可能性が生まれるため、起業となると現実的な選択肢となりやすい。

 

さて、一口にITと言っても様々なビジネスが存在する。

スマホのゲームアプリもITであるし、企業向けのシステム開発もIT業界のそれとして位置づけられる。

そんな中で広く世の中に大きなインパクトをもたらすビジネスが、売り手と買い手を結びつける「仲介役」としてのWebサービスである。

ITを活用した「仲介役」のビジネスは、ITが持つ情報処理能力とネットワークの力を大きく活かし、時には既存の市場を破壊するほどのインパクトをもたらすことになる。

 ここで言う「仲介役」の定義は、下記のようなものだ。

・ある製品やサービスを買いたい人と売りたい人を結びつける

・自分たちは、取り扱う製品、サービスそのものを持っているわけでは無い

 自分たちは物を作ったり、サービスそのものを提供するのではなく、あくまでも需要と供給を結びつける役割に徹することがその特徴になる。

 

事例から見る「仲介役」としてのITサービス

この「仲介役」にあたるサービスとして代表的なものがAmazonを始めとするE-コマースサイトだ。

Amazonは元々は書籍の販売から始まっており、本を買いたい人と売りたい人を仲介するサービスだった。

彼らは自分たちで本を編集したり、出版することは無いが、本の流通を一手に担うことで、出版業界のあり方を大きく変えるサービスとして普及していった。

今では様々な商品を取り扱うようになり、あらゆるモノの買い手と売り手を結びつける市場として日に日に存在感を増している。

Amazonの登場により、従来、百貨店や家電量販店といった小売店で買い物をしていた人たちがWebから物を買うようになり、買い手と売り手の仲介役をWebサービスが果たすようになった。

 このように、買い手と売り手の結びつけ、「仲介役」を果たすようになったWebサービスは他にもたくさんの例がある。

Amazonはあらゆる商品を扱う巨大な市場として機能しているが、アパレルに特化したサービスとしてZOZOTOWNがある。

ZOZOTOWNは服の売り手と買い手を仲介することで、アパレル業界の流通を変えた。

実物を見ずに服や靴を買うという、新しい消費のトレンドがZOZOTOWNによって生み出されることになったのだ。

ZOZOTOWNも、Amazonと同様に自社製品の販売は一切行っていないが、服の売り手と、買い手が使いやすい仕組みを作ることによって、多くのユーザーを獲得していくことになった。

そして、ITの「仲介役」はこれらの目に見える商品のみにとどまらない。

例えばAppleiTunesを提供することで、音楽を売りたい人と買いたい人を仲介する役割を果たし、音楽業界のあり方を変えてしまった。

これまで、レコードやCDという媒体で流通していた音楽コンテンツは、Webから簡単にダウンロードして入手できるようになった。

不動産業界では、リクルート社のSUUMOが、複数の不動産業者と消費者を仲介するポータルとして高い認知度を誇っているし、金融業界でも、ネット証券の登場によって、あらゆる証券会社の金融商品をWeb画面からいつでもどこでも注文できるようになった。

このように、自社で製品やサービスを持たずとも、需要と供給のネットワークを作る事で収益を上げるサービスが増えてきている。

 最近のベンチャー企業の取組みの例では、PairsOmiaiなんていう婚活アプリが出てきて、結婚をしたい人同士を、正に文字通り「仲介」するサービスがユーザーを集めている。

婚活関連ののビジネスは、昔から対面を前提にした結婚相談所は存在していたが、Webでこれを実現し、若者向けに広くPRを実施することで、ユーザーの利用のハードルを大きく下げ、多数の会員を獲得することに成功している。

 また、ユニークなものでは、駐車場を借りたい人と駐車スペースを貸したい一般の方を結びつけるakippaというサービスがある。

www.akippa.com

これは、一般の人が自宅の空いたスペースを他の人に有料で貸し出すことを「仲介」するものである。

駐車スペースを貸す人は、家の余った土地で手間をかけず副業ができ、また駐車場を借りる人は、駐車場が少ない場所でもスペースを確保することが出来、双方にメリットがあるサービスだ。

自力で駐車場ビジネスを始めようとすると準備や手続きが面倒だが、こういったWebサービスがあることで、誰でも余った土地を活用した商売を簡単に始めることが出来る

これらのように、企業と消費者(B to C)では無く、一般の消費者同士(C to C)を「仲介」することによって、新しい市場を生み出すサービスは他にもあって、海外でも先行事例が多い。

アメリカ発のairbnb(エアービーアンドビー)は世界で広く普及しているサービスで、自分の家をホテル代わりに一時的に貸したい人向けのプラットフォームだ。

www.airbnb.jp

自宅の情報をサイトに登録すれば、家を借りたい人から申し込みが出来る仕組みになっている。

部屋を借りる人から見れば、コスト重視で泊まる場所を探したい時、民間ホテルや旅館以外での選択肢として活用することが出来る。

自分の家を貸すというのは一見抵抗がありそうだが、世界190ヶ国以上で実績があり、既に日本にも上陸している。

こういった一般の人同士を結び付けるサービスは、これまで無かった市場を新たに作り出すことになり、場合によってはこれまで存在していた業界を脅かすことに繋がる。

エアービーアンドビーでいえば、ホテル事業者では無い一般の人たち同士が取引を行うことによって、既存のホテル業界のパイを奪っていく可能性を持ってるのだ。

「仲介役」ビジネスが社会にもたらすインパク

このように、ITによって商品やサービスの買い手と売り手の「仲介役」になることで、 革新的なサービスを生み出している企業が多く存在している。

これらのサービスの普及は、それまで「仲介役」として機能していた既存の産業に対して、大いに影響をもたらすことにある。

本や音楽の流通が、Webに取って替わりつつあると叫ばれて久しいが、Amazonやi Tunesの普及によって、既存の書店やCDショップといった市場は縮小の一途にある。

「仲介役」としてのITサービスは既存のビジネスを根本的に破壊するパワーを占めているのである。

そして、このような「仲介役」のビジネスは一度業界リーダーになってしまうとその地位が揺らぎにくい。

本を買おうと思えばAmazonだし、音楽を買おうと思えばAppleというイメージ=ブランドは後からその地位を奪いに行こうとしてもかなりハードルが高い。

「仲介役」として覇権を取ってしまえば、多くの人がそのサービスを使うことになるので、ユーザー数の増加と共にその利便性も高まっていって、着実に成長、拡大していくことになる。

そこには、既存の業界構造をAmazonAppleといった特定のIT企業が変えていって、ビジネスを一社が総取りするという構図が生まれるのである。

 また、注目すべきはこれらの「仲介役」のサービスは、世の中にあふれる「需要と供給のアンバランス」を最適化するという意味で、非常に社会貢献性の高い事業だということにある。

モノやサービスが溢れる現代社会で求められているのは、社会全体で製品、サービスの総量をこれ以上増やしていくことではなく、「生産と消費のバランス」を適正に保つことだ。

欲しがっている人がいるのに、それを見つけられる環境が無い。

それによって、余ったモノが捨てられたり、資源を十分に活用できなかったりする。

Webを通じて、買いたい人、借りたい人を見つけることが出来れば、資源の有効活用に繋がっていく。

生産者と消費者をITがうまく仲介し、需要と供給のバランスを取る事によって、社会全体でムダが無くなるならば、その存在価値は単に利便性の枠を超えたものになりうる。

こういった意味で、ITで売り手と買い手の「仲介役」を果たすサービスは、ビジネスとして大きなチャンスを得られるだけでなく、世の中に大きなインパクトをもたらす可能性を秘めているのである。 

理想のキャリアを作るために、あえてお金やステータスを捨てる勇気

一部の脱力系の人を除けば、多くのビジネスマンは、自分の好きな仕事、やりがいのある仕事をしたいと願っていると思う。
 
少なくとも、全く適性が無く、情熱も興味も持てない仕事を延々とやらされることは、なるべく避けたいはずだ。
 
望んだ仕事に就く方法、理想とするキャリアを勝ち取るためには様々な手段があるが、ここでは、転職を前提としてキャリアを重ねていく時の一つの方法、ポイントについて考えてみる。
 
もし転職をうまく活用してキャリアを築いて行こうと思うなら、自分が経験してきた仕事の内容や権限については、常に意識した方がいい。
 
転職市場において、企業が中途採用の人材に求めるのは、これまでの職務経験である。
 
採用の主な判断基準は、応募者が過去にどんな仕事を手がけてきて、どんなスキル、ノウハウを持っているかだ。
  
会社の看板や肩書きが求められるケースもあるにはあるが、それ以上に本人のビジネス経験によっておおよそ次のステップ、選択肢が決まってくる。
 
その意味では、転職先の会社やポジションの選択肢は、過去の職務経験の延長線上にあると考えるべきだ。
 
経理をやったことが無い人が財務部のポジションを得ることは普通難しいし、マネージャーをやったことが無い人に部長や事業責任者のオファーが来ることはほとんど無い。
 
「過去の経験が全て」という現実を考慮すると、時に目先のお金やステータスを犠牲にしても、「どんな仕事が出来るか」を重視して道を選んで行くことが重要だということが分かる。
 
例えば、周囲に経験豊富な先輩社員が多く、いつまでも大きな仕事が回ってこない大企業を飛び出して、人材不足の成長企業に入り、責任の大きな仕事を経験することは大きな財産になる。
 
また特に外資系企業においては、転職を繰り返しながらキャリアチェンジ、キャリアアップをしていくことが当たり前なので、会社を変わりながらステップを重ねていく人が多い。
 
同じ業界に勤めていて、一緒に仕事をしたこともある知人は、上が詰まっていて当面マネージャーへの昇格が見込めない会社の現状に見切りをつけ、立ち上げ時期のベンチャーに入り事業部長として経験を積み、次の転職では最初に在籍していた所より市場評価の高い企業のマネージャーのポジションを得た。
 
また他の若手営業の例で、彼は仕事をしているうちに営業よりコンサルに興味が出てきたものの、大手コンサルファームは実績が十分で無いと雇ってはもらえない。そこで、知名度も年収も業界では劣るファームに未経験枠でまず入社し、そこでノウハウを吸収して高い実績をあげ、元々入りたかった企業へと入社を果たした。
 
このように、自分がやりたい仕事があるならば、あえて会社の規模や年収を落としてもそこで数年経験を積み、本来入りたかった企業、やりたかった仕事、就きたいポジションを掴み取ることもできるのだ。
 
理想的なキャリアを作っていくためには、会社でどんな仕事経験を積めるかということを優先して、時には目先の収入や看板を捨てる勇気も必要だということを実感する。
 
もちろん、転職が前提に無い場合は、このようなキャリア形成は難しくなる。
 
万人に転職を薦めるつもりはないし、長く務めることによって最終的には満足する仕事に就けることもあるが、もし今いる会社の延長線上に自分が想い描く姿を見いだせないのなら、思い切ってお金やステータスを捨ててチャレンジする決断をしてもいいのかもしれない。
 

外資系には尖った変人ばかりじゃなくて穏やかな常識人も絶対に必要

外資系には尖った変人が多いとよく言われる。

確かに仕事で成果を出しさえすれば、見た目や性格に多少難がなっても許される雰囲気があるし、どちらかと言えば、協調性よりも自己主張が重視される傾向があるかもしれない。

今の会社で、ざっと社内を見渡して見てもインパクトのある人、キャラが濃い人が多い。

まず髪型や服装がほぼ自由なので、見た目からしてカタギのサラリーマンっぽくない人をよく目にする。

隣の営業部にも、肌は色黒、赤フレームのメガネに、口ひげ、アゴヒゲを蓄え、極太ストライプのスーツにミッキーのネクタイを好んで合わせてくる、見た目EXILEの出来損ないみたいな人がいる。

これが喋ってもかなりアクが強く、聞いてもいない過去の女性経験、仕事自慢を彼が始め出したら、周りは数十分の拘束は覚悟せねばならない。
 
そんな自己主張の強いタイプなので、社内には彼を苦手とする人も少なからずいるが、なぜか営業成績はめっぽう良く、チーム内では主力として頼りにされている。
 
社内のあるエース級のコンサルは、アラフォーのいい歳こいたオッサンでありながら、田舎のヤンキーばりの金髪で、ボロボロのデニムにネルシャツとスニーカーで平気で客先にも出向いていく。
 
しかし、技術にはめっぽう強く、最新のテクノロジーについてプレゼンをさせたら、ITオンチの年配の役員さんをも魅了するほどしゃべりも上手いので、そんな格好でも許されており、むしろ彼のファッションも個性としてみなされ、完全にキャラ立ちしている。 
 
いずれも、伝統的な日本企業では変人扱いされて地方の支店か飛ばされるのか、閑職に追いやられるかが席の山の人達が、外資系という自由な文化の中で実にのびのびと仕事をしている。
 
そんな人達を、能力があれば、という前提で全て受け入れる外資系企業はある意味、包容力があり柔軟な社風を持っているともいえる。
 

尖った変人ばかりでは会社は回らない

こんな人達がことさら目立つので、時に外資系は尖っている変人達が集まる場所だと思われがちだが、実際には穏やかでまともな?人というのも結構多く、外資系なオラオラ、ゴリゴリの自己主張が強い人ばかりいるわけではない。
 
銀行員のようなキッチリした服装に、優しく相手を諭すような物言いをされるタイプや、疲れきった新橋のサラリーマン風な普通のおじさんも当たり前だが多くいる。
 
外資系企業も組織である以上、変人ばかりでは仕事にならない。
尖った人達だけでうまく行く仕事ももちろんあるが、組織はバランスが大切だ。
 
特にビジネスはお客さんあってのこと。
外資系企業とはいえ日本で商売をしている以上、相手の多くは典型的な日本企業のお客さんだ。
 
自己主張が強いだけで、日本人的な気づかいや、配慮に欠けていると、相手から敬遠されてしまい、うまく人間関係が築けない場合もある。
 
そんな時には、誰にでも好感を持たれるような、穏やかで、ある意味目立った特徴の無いタイプの人も必要になる。アクの強い人では無く、安心感のある人に対して心を開いてくれる人は多いものだ。
 
一方で、尖っている人はやはりインパクトがあり相手の印象は残るので、ここぞという商談や、爪痕を深く残したい場面では大いに活躍する。
 
どっちが良いか悪いかの話ではなく、要は役割分担だ。
 
尖った人がプレゼンをして相手に強いメッセージを与えた後に、穏やかな人が後で出向いて、実際あの変な人どうでした?とフォローしたりする。
 
プロサッカーの世界でも、本田選手のような尖ったタイプばかりでは無く、誠実な長谷部選手や謙虚な今野選手のような人達がいてチームのバランスが保たれている。
 
会社も同じで、個性的なカリスマタイプだけではチーム全体として総合力を発揮することはできない。
 
それらの人たちと協調し、時には上手く彼らを活かして仕事を堅実に進める、穏やかな常識人も必ず必要なのだ。
 
もし今の職場環境で周りが個性的でアクの強いタイプばかりで、自分は目立たない存在で活躍できそうもない、と自信を失いかけている人がいたら誤解はしないでほしい。
 
どんな組織でも必ずいろいろなタイプの人材を求めているし、尖った人材ばかりで成り立つ会社なんて無い。
 
その人のキャラクターに応じた活躍の場が仕事の中で必ずあるし、無理に自分を変えていくよりも、置かれた環境でどう活躍出来るか、ということを自分で見つけていくことの方が重要だと思っている。

仕事だけの人生に後悔する男を見ると、女性の方が幸せの本質を理解している気がする

仕事に熱中するあまり、家族や友人と過ごす時間をおろそかにしてきた人が、晩年になって後悔するという話を耳にする。

仕事を最優先にして、色々な犠牲を払ってきたサラリーマンが、「子供と過ごす時間を大切にするべきだった」「妻に感謝をしてもっと話を聞いてあげるべきだった」といった反省の想いを、歳をとってから抱くことは多いらしい。

オーストラリアの看護士が綴ったという、死ぬ直前に後悔する5つのこと、という記事が話題になったことがあるが、ここでも「あんなにがむしゃらに働かなくてもよかった」という項目が入っていたりする。

 ワークライフバランスが叫ばれて久しいが、「仕事で成功することが人生の成功である」という価値観はいまだ根強く、特に闘争心や権力欲のある男性はこのような考え方を持つ傾向が強くみられる。
 
野心が強い男であればあるほど、仕事優先に人生を考えてしまうのは仕方ないし、人生の大半を占めている仕事の時間で、成功を望むのは健全なことではある。
 
しかし、人生の幸福とは何かということをじっくり考えてみると、仕事のみにそれを求めるのは限界があるのかもしれない。
 
確かにお金や権力は男にとって魅力的なアイテムだし、仕事の成功が生活の豊かさに繋がることは確かだが、それを得た所で幸せになれるかどうかはまた別問題だ。
 
成功した所で、周りの人を幸せにできなかったり、大切な人と過ごす時間が無くなってしまっては、 一体何のための人生だったのかと虚しさを感じることになるのだろう。
 
実際に、仕事だけの人生で後悔する人はいるが、逆にプライベート優先、家族優先で仕事がおろそかになって後悔したエピソードというのは全くと言っていいほど聞かない。
 
もしかすると「もっとがむちゃらに仕事をすればよかった」と後悔する人もいるのかもしれないが、美談になりにくいので表立って語られないのだろうか。いずれにしろ、仕事だけの人生は虚しいものだと語られることの方が、一般的には多いと思う。
 

男性より女性の方が幸せの本質を理解している

仕事を最優先とする価値観は、男のDNAにインプットされた本能から来ているような気がしている。
 
男が持つ闘争本能、狩猟本能が、仕事を通じて競争社会で勝ち抜くことを良しとし、会社で上に登っていくことが、元来の高いプライドを満たしてくれることになる。
 
このような本能に従って、がむしゃらに仕事に励んだ結果、死ぬ前に後悔するとすれば、男というのはなんて切ない生き物だろう。
 
仕事での成功が人生の成功と信じて疑わず突き進んだ結果、晩年になり、もっと大切なものの存在に気付くなんで、あまりにも虚しい。
 
こういった悲しい宿命を負った男たちに比べると、女性の方が、男のような妙な野心やプライドが少なく、本当に大切なこと、自分が好きなことに対して賢く時間を使うことに長けているように思える。
 
肉食系女子なんて言葉が出てきて、仕事欲の強い女性も確かに多くなってはいるが、どちらかというと家庭を重視し、夫や子供との親密な関係作りを望むのは女性の方だ。
 
個人差の問題なので、男性、女性と一括りにして区別すること自体がナンセンスではあるが、えてして男性の方が仕事での成功を強く望み、女性が家庭や人間関係を大切にしたいと考える場合が多く、こういった男女の価値観の違いで、すれ違いや対立が起こるのはよくある話だ。
 
女性が、家庭や人間関係を重視し、そこに人生の価値を無意識にでも置いている、そして実際にそこで深い幸福感を得ることが出来る。もしそうなら、男より女性の方が幸せの本質を生まれながらにして理解していることになるのではないか。
 
その意味では、家庭や人間関係の話だけではなく仕事そのものを選ぶ時にも、女性の方が、どういう状況に置かれると自分は幸せなのかということを直感的に捉えて、道を選んでいるケースが多いように思える。
 
会社の看板だとかお金といったつまらないプライドや目先の利益にこだわることなく、自分の興味や好きなことを考えた上で、大胆に決断できるのは女性の方だ。
 
周囲の人を眺めてみても、それなりに知名度のある大企業の看板を捨ててでも、本当に好きなことをしたいと会社を去り、生き生きとした社会人生活を送っているのは女性の方が多かった。
 
肩書きとか年収とかに縛られて、好きなことや大切なことを求めて、思い切った決断が出来ないのはむしろ男の方だ。
 
こんな場面を見ていても、やはり女性の方が幸せという感覚に対してアンテナが高く、人生で本当に重要な物は何かということを本能的に理解していることが多い気がするのだ。
 
やや、仕事ばかりの人生という話と論点がズレてしまったが、要は男よりも女性の方が、幸せの本質ということを本能的に理解して賢い選択、行動が出来ているのではないか。
 
自分の意思でもって、「がむしゃらに働いた」結果、後悔する男がこの世に多いとしたら、仕事での成功を望む男というものはなんと不幸な生き物か。
 
そうは言っても、仕事が出来ない男、仕事にやる気が無い男というのもなんとも情けないものだ。
 
一男性としては、仕事を頑張りながらも、晩年人生に後悔しないために、なんとか仕事以外のこととのバランスを取って生きたいものである。