外資系リーマンのゆるコミット

必ずやります、たぶんそのうち

盛り上がりだけを考えるなら、若いうちに結婚式を挙げた方が絶対にいい

結婚式の盛り上がりだけを考えると、ある程度若いうちに式をあげたほうが絶対にいい。

結婚式の出席を重ねれば重ねるほど切にそう思う。

何回出ても結婚式は良いものに変わりはないし、特に近しい友人の式ともなれば感動はなおさら。参加しているこちらまで幸せな気持ちになることは間違いない。

とは言え、年齢を重ねるにつれ、結婚式に出た時の感じ方、感動の度合いが変わってきていることを実感する。

やはり周囲より早いタイミング、二人がまだ若いうちの結婚式の方が、会場はより盛り上がり、純粋な感動が起こりやすい。

新郎新婦の年齢がある程度高い結婚式も、落ち着いた雰囲気で別の良さはあるが、盛り上がりという意味では、若者同士の式に敵わない。

こうなってしまう理由は単純で、式の参列者、そして新郎新婦、共に年齢が高くなること。これに尽きる。 

参列者の平均年齢上昇による影響

まず、参列者の年齢が全体的に高くなることの影響について考えてみる。

結婚式全体の雰囲気や盛り上がりは、参列者の反応に大きく左右される。 

式には同世代の友人、知人を参列者として招くことが多いから、結婚する年齢が高いと、当然参列者の平均年齢も上がる。

参列者の平均年齢が上がれば、式の雰囲気は落ち着いたものになるのが自然とはいえ、落ち着きすぎて覚めた反応になってしまうのもそれはそれで寂しい。
 
いい歳した大人がワイワイ騒ぐもんじゃないってことはあるにしろ、それ以上に参列者が結婚式という儀式そのものに慣れ、場合によっては飽きている可能性がある。
 
結婚式の全体的な流れはおおよそ似たようなものだ。
 
挙式では、牧師のお言葉から始まり、照れ笑いで登場する新郎、純白のドレスに身をまとった新婦と父親の入場、指輪交換に誓いのキス、その後のブーケトスから記念撮影。
披露宴では、新郎の挨拶からの、主賓の言葉、乾杯で食事を楽しみながら、ケーキカットとファーストバイト、お酒を片手に新郎新婦を取り囲み、途中に二人の馴れ初めムービーや、内輪メンバーによる余興や友人スピーチが入り、新婦から両親への感動の手紙。
 
新郎新婦の好みによって多少の違いはあれど、結婚式の流れは人によってそんなに大きく変わるもんではない。
 
もちろん、同じ段取りでも新郎新婦と自分の関係性によって全然印象は違うが、そうは言っても式の雰囲気には慣れ、程度の差はあれマンネリ化する。
 
やっぱり1回目に参加した結婚式と、10回目に参加した結婚式では、参加する側の新鮮味は全然違う。
 
結婚式への列席を重ねると無意識にでも他の友人との結婚式と比較してしまったり、会場がかぶってたりしたらそれだけで既に新鮮味や緊張感は薄くなる。
 
私も1回目に参加した式では、そこまで親しくない先輩の結婚式にもかかわらず感動のあまり号泣してしまったが、正直ここ最近の結婚式で泣いた記憶がない。(感動していないわけではないが、ある程度冷静に見れるようになった。)
 
単に心がすさんでしまっただけのような気もして悲しくなるが、そもそも年齢と共に純粋な感動をしにくくなるのが人間というものだと、もはや開き直るしかない。
 
それに、感動が薄れるという意味では、既婚者比率が高くなっていくのも大きいと思う。
 
既婚者は、結婚に対してキラキラした夢を抱いていることはもはや無く、結婚とは地に足をつけた生活そのものだと身にしみて理解している。
 
参列者に独身メンバーが多いと、結婚への憧れとか、結婚式そのものへの羨望の眼差しがあったりして、自然と参列者の思いも熱くなるが、既婚者になるとそうもいかなくなる。
 
そもそも恋愛モードからは卒業しているので、二人の馴れ初めとか恋愛話を聞いても「懐かしいなあ」とか「若いなあ」みたいなオッサン、オバサン的な感想になりがちだし、何しろ結婚式を自分たちで一度やっているので、テーブルの花にずいぶんお金をかけてるな、とか、ご飯はそんなにイケてないな、とか、イヤらしい視点で式の様子を眺めたり、分析したり、私はしたことが無いが、そんな人もいるかもしれない。
 
とにかく、参列者が大いに共感し、感動するためには若いメンバーが多い方がいいことは間違いない。
 
なお、子持ちの男の中には、自分の娘が将来嫁いでいく姿を想像して泣くという、新たな感動メカニズムを持つ人種が出現するが、ここでは例外として扱うことにする。
 
また、精神的に若すぎる新郎新婦や参列者が、空気の読めないバカ騒ぎをして興醒めする式もあるようだが、これはどちらかというと個別の人間性の問題なので考慮しないことにする。
 
新郎新婦の年齢上昇による影響
 
参列者以上に、主役である新郎新婦の年齢によって、式の雰囲気が大きく変わるのは当然である。
 
まず、一定の年齢に達した二人から醸し出される「純愛オーラ」が薄くなることはどうしても避けられない。
 
若者同士の結婚式は、二人が愛だ恋だの語り合いながら、気持ち優先で一緒になっていることがすごく伝わるので、純粋な感動を呼びやすい。
 
一方、大人同士の恋愛は、単純な好き嫌いだけではなく、背後に色々な事情が見え隠れすることがある。
 
勤務先や収入、肩書きや家柄などのスペックにも惹かれたんだろうなとか、結婚のチャンスに恵まれず繰り返しの合コンの末やっと捕まえたんだなとか、性格の悪い人ならそんな邪推が入ったりする。
 
もし打算的なものや、妥協や折り合いなどの大人のドロドロした事情が二人の関係に垣間見えてしまうと、そこから純粋な感動がよびおこされることは無い。
 
なんだかんだ言っても結婚は神聖なものだし、参列者も結構そこにロマンティックなものを求めていたりする。
 
大人の事情ではなく、ピュアな恋愛の延長にその結婚があるかどうかは、参列者も結構敏感に感じ取る。
 
ここでやっかいなのは、もし二人に打算的な色が無く、超純愛の上に結婚までこぎつけていたとしても、いい歳をした大人同士が恋だ愛だと言っていたら周りが白けやすくやることだ。
 
20代の若者の馴れ初めやデートの思い出ムービーは微笑ましいが、30代以上のそれは見るに堪えない。
 
そもそも他人のノロケ話やラブラブ写真なんて誰も見たくはないものだが、結婚式の雰囲気によって、オープンに思いっきりノロケ話をすることもよしとされる。
 
しかし、それが許されるのもある程度若い世代までだ。
 
いい大人が好きだの愛してるだの公然と語り合う光景は割と寒いし、深い共感を呼ぶのはかなり難しい。
 
若いうちに式を挙げることの価値はそれなりにある
 
このように、新郎新婦はもちろん、参列者の平均年齢も上がることにより、結婚式全体のテンションが下がってしまうのは避けられないことだ。
 
かといって、別にいい歳したら結婚式をあげなくていいとは思わないし、大人同士の落ち着いた雰囲気の良い式だってある。
 
早く結婚したいからと言って、妥協して相手を選んだり、式だけを目的に結婚を決めたりするのは本末転倒だ。
 
だが、しかしだ、普通の人ならおそらく人生で一番注目を浴び、主役になれる晴れ舞台が結婚式だ。
 
その日に最高の感動、幸福感を参列者に与えたいなら、若い時に結婚する方がいいし、結婚式とはそれだけの価値があるイベントだと思う。
 

どんなに高学歴でデキるやつでも3年目まで発言権が無いのは仕方ない

新卒で入社した会社で、入ってすぐに責任のある仕事を求めたり、大きな成果を出したいと焦ったり、ましてや能力が適正に評価されていないと不満を持つことは、たいていの場合お門違いだ。
 
バイト以外で働いた経験の無い新卒社員が、入社してすぐに会社で大きな成果を出し、認められることなんて普通は難しい。
 
もし大きな成果を出したとしても、まぐれの一発当たりか、会社全体から見るとたいした貢献度のものではないか、いずれにしろ会社からすれば入社したての若手なんてたいした存在ではない。
 
むしろ、入ったばかりの若手が社内で存在感を持ち、すごい仕事をしてしまうような会社は、そこにいる社員のレベルがたいしたことなくて、そこでやっている仕事もたかがしれているんじゃないかと思ってしまう。
 
目安として、3年前後は上司や先輩の下について仕事の基礎を学んで行かないとまともな仕事なんて出来るわけがない。
 
3年以内に社内で頭角を表し、大きな成果を出すなんて、よほどのスーパーマンじゃなければ不可能だ。
 
時々、特にweb関連の業界を中心に、入社2〜3年で新規事業の責任者を任されたとか、新サービス立ち上げを経験したなんて話を聞くものだが、これらの業界が若手にも責任を与えるのは、挑戦して失敗した時のリスクが低いからだ。
 
一般的なwebサービスは初期投資コストが低く、例え失敗したとしても会社に大きな損失はないし、新規事業なんて失敗してナンボということもあって、リスク覚悟で若手にチャンスを与えることもあるだろう。(そもそもこの手の業界は平均年齢が若い、人手が足りていないということもあるが。。)
 
そういう意味で、業界や会社を選べばすぐに成果を実感する仕事は出来るかもしれないが、ある程度規模のしっかりした会社であれば、会社として失敗が許されない事業、責任の大きなビジネスに、入社してすぐの若手を登用することはありえない。
 
例えば、社内で大きな売上高を占め、高度な交渉と豊富な業界知識を要求される大手企業の営業責任者をいきなり若手に任せる会社は無い。
 
会社が社運をかける大きなプロジェクトで、複数の社内、社外の関係者を巻き込み、高度な知識レベルとリーダーシップが求められる責任者に入ってすぐのペーペーを抜擢するわけがない。
 
会社にとって失敗が許されない、責任の大きな仕事には、社内で実績を積み、信頼を獲得してからで無いと任せてもらえないのが普通だ。
 
外資系だと若くても裁量権があるとか、自由にやらせてもらえるとか言われるが、それもある程度の経験を積んでから。
 
むしろ外資系であればそもそも残っている社員が皆それなりの努力の末、スキルを磨いてきたメンバーなのであって、その中で若手が活躍しようと思ったら尚更ハードルが高いともいえる。

下積み期間を経て、徐々に仕事を任せられるようになる

入社してしばらくは下積み期間として、言われたことをがむしゃらにこなして仕事の基礎を学んでいくものだと思う。
 
これが理解できず、入社して間もないうちに過剰な自己アピールとか勘違いなふるまいをしている社員というのが毎年少なからずいる。
 
自分に自信があることは結構だが、学生あがりの若者の過剰な自意識と慢心に、多くの社会人は辟易している。
 
そんな若手に対して、昔の自分を思い出して逆に腹が立つのか分からないがおじさん達は厳しく、だいたい先輩方による社会の洗礼を受けることになる。
 
経験が無い若手には、たいした仕事は出来ない。
10年以上も社会人を経験した人なら誰しも思っていることだ。
 
なぜなら、入社したての自分の無力さ、無知さ加減をよく覚えているから。
 
今、自分がやっているレベルの仕事を、入社すぐの自分にやれと言われても到底難しいことをよく知っているからだ。
 
本来人によって才能も能力も違うから、入社したての自分の能力を基準にして若手のスキルを推し量ることはナンセンスなのだが、基礎能力が似たレベルの人が集まっている会社ならば、あながちその感覚は誤りではない。
 
自分が、3年目くらいまではどうしようもなく未熟だったのだから、どんなに新卒学生がもの凄いポテンシャルを持っていようが、若手というだけで経験不足と判断してしまうのはやむを得ないことだ。
 
その意味で、ある程度レベルの高い会社に入ったならば、すぐに仕事を任せてもらえないとか、成果が中々出ないとかいうことに焦らず、しばらくは我慢してじっくり基礎を固めることに集中した方が良い。
 
目の前のことがどんなに小さなことであってもしっかりこなすようにすれば、その働きを見てくれる人が必ずいて、徐々に仕事を任せてもらえるようになるし、社内での権限や責任も自然と大きくなっていく。
 
それまでは下積み期間だと割り切って、「誰でも出来る仕事をやらされる」とか、「社内で全く発言権が無い」なんてことは普通だと割り切った方が良い。
 
その期間は、プライドを押し殺してでも、周りの先輩からのアドバイスを真摯に聞く、仕事を盗むチャンスを積極的に作っていく謙虚さが必要だ。
 
結局は、そういう人間が周囲から可愛がられ、情報が集まっていく。徐々に仕事が身についていくにつれ信用が出てきて、大きな仕事を任されるようになる。
 
どんなに才能がある人間でも、基礎固めの時期というものはある。
 
入社してすぐの修業期間は、口だけのアピールや形ばかりの成果を急ぐのではなく、頭角を現すための地道な努力を続けていく方が、長い目で見ると大きな成功に繋がっていくものだと思っている。

リスクを恐れて外資系への転職を踏みとどまっている人へ

外資系企業は実力主義で、クビもあり得る分、働く場所としてはリスキーだと思われることが多い。

しかし、会社に依存する事なく様々なキャリアの選択肢を持てるという意味においては、むしろ一般的な日系企業よりリスクは低いと思っている。
 
そもそも突然クビになってしまうこともそうあるものではないが、例えクビになったとしても、外資系企業にいれば比較的次の職場を見つけることは容易である。

厳しい環境で働くことになるためそれなりに仕事の力がつくということもあるが、特に外資系の経験が一度でもあれば、少なくとも同業の外資系企業には入りやすいためだ。
 
会社のカルチャーに馴染みやすく、中途で働くことに慣れていている外資経験者を、外資系企業は好んで採用する。外資系にいたことがあるというだけで、外資系企業から採用されやすくなるのだ。

また、外資系企業は中途採用のポストが常に開かれており、様々なキャリア選択の機会がある。
 
同業他社や競合への転職も当たり前で、部署を変えるかのように数年単位で会社を渡り歩く人も珍しくない。
  
このような理由から、少なくとも私の周りでは、クビになった人、ポジションが無くなって辞めた人が、職を失って路頭に迷ってしまったなんていう話は聞いたことがない。
 
ちなみに行き先としては、やはり同業の外資系が多いが、大手日系企業ベンチャーなど様々。

職種がマッチしていれば、外資系から日系企業への転職もそう難しいことではないのだ。
(もちろん所属していた会社の格もそれなりに重要ではあるけども)

会社を辞めるという選択肢があるということ

いざとなったら会社を辞められる。
 
この選択肢があることで人生設計の自由度が増すことは明らかだ。
 
辞める選択肢が無いということは、会社の命令や方針に服従して働き続けることしか無いことを意味する。
 
どんなに嫌な仕事、どんなに嫌な上司、どんなに嫌な場所で働かされようが従うしかない。
 
嫌だと思ったことも後で振り返れば良い経験となり、成長に繋がることはもちろんあるが、世の中そんなにうまい話ばかりではない。
 
例えば、突然の転勤辞令で、買ったばかりのマイホームを手離し、家族と離れ離れになってしまうなんてことはよくあるサラリーマン不幸話だし、やりたくもない、成長もできない仕事に長い間つかされ、すっかり働く意欲と能力が落ちぶれてしまう人もごまんといるだろう。(そもそも全国転勤がある会社でマイホームを買うこと自体理解に苦しむのだが。。)
 
知り合いの中には、マーケティングがやりたくて飲料メーカーに入ったものの、10年以上も地方で営業をやることになり、もはや当時の夢すら忘れてしまった人や、損保に入社して順調なキャリアを歩んでいた所、コールセンターの部署に異動になり、全く性に合わず心身共に病んでしまったが、待遇は良いため中々辞める決断が出来ないという人もいる。
 
会社を辞めるという選択肢があるということは、このように受け入れたくない人事、異動に対してNOを言える権利を持てる、自分で今の環境から脱出する機会を作れるということだ。
 
しばらく仕事から離れて留学したい、起業をしたい、なんてチャレンジをするにしても、大手の日系企業にいては辞めることに尻込みしてしまいがちだが、外資系企業なら辞めるのが当たり前。再び働きたくなった時の出戻りも容易だし、外での経験をむしろプラスとして受け入れてくれる場合もある。
 
日系企業でも中途採用が増えてきているとは言え、伝統的な大企業はまだまだ新卒文化だ。中途でそれなりの会社に入ることは難しいし、ましてや出戻りを受け入れるケースは珍しい。
 
一度出てしまったら戻れない。同じだけの地位や規模の他社に転職することは容易ではない。そんな思いが、人に迷いを抱かせる。かように硬直した労働市場が、本当はチャレンジしたいサラリーマンの決断をますます鈍らせる。
 
結果、一つの会社で働くことが当たり前として自分に言い聞かせ、会社の指示に従うだけの従順な人間を産み出していく。

自分でキャリアを選んでいく人のための外資系企業

別に外資系企業を手放しで褒め称えるつもりはないが、実力主義やクビがリスクと恐れる前に考えて欲しいのは、自分にとって人生の本当のリスクとは何かと言うことだ。
 
どんな環境で働くことになってもいいから、雇用だけは保証して欲しいと思うなら、公務員や日系大企業が現実的に最良の選択だが、そんなことばかりに目が向いて、他のリスクを見落としていないか。
 
会社の言いなりになって行きたくも無い場所、成長出来ない環境で働かされることや、会社都合で何十年も、自分に合わない、進歩のない仕事をさせられることはリスクにはならないのか。
 
もしあなたが、新卒で誰しもが知る優良企業に入ったものの、周りのおじさん達が会社の言われるがままに我慢を重ねて仕事をしている、愚痴をこぼしながらも他に転職も出来ず嫌々働いている、そのことに強烈な違和感を覚えるなら、その感覚は多分正しい。
 
このような選択権の無さ、主体性の消失を最大のリスクだと認識するとしたら、外資系のフィールドは極めてリスクの低い選択肢になり得る。
 
また外資系企業はそのような、自分で進む道を選択し、自分の意思で仕事をしていく人を求めてもいる。
 

まともな男なら、反抗期が終わる中学生のようにいつか女遊びを卒業するもの

人として、真っ当な人間性と倫理観を持つ男ならば、若い時に女遊びに走ったとしても、年齢とともにいつかはそこから卒業していくものだ。

学生時代や社会人に成り立ての20代前半は、特に女遊びが楽しくて仕方ない時期だ。

特に高校時代までは真面目にしっかり勉強して、それなりに良い大学に入り、名前の知れた企業に入った男ほど、それまでの反動で遊びに目覚めることが多いと思う。

気心の知れた友人との合コンや、夜な夜なクラブに繰り出してのナンパがとにかく面白い。

そこで得られる成果に一喜一憂して友人たちと盛り上がり、どうやって女の子との出会いの場を広げるか、狙った女の子をどうやって落とすかという見苦しい戦略会議に精が出る。

かわいい子を落として関係を持った、デートしてその日のうちにホテルに行った等といった、女性からすると聞くに堪えない不毛な自慢合戦で、男どもの酒の席は最高に盛り上がる。

抑えきれない自分の性欲を満たすため、あるいは、モテたいという強い承認欲求が、若者を女遊びに走らせる。

しかし、女遊びがめちゃくちゃ面白くて仕方ないのも、ある一定の時期までだ。

まともな男は遊びから卒業していく

歳を重ね落ち着いてくると、ほとんどの人が女遊びから卒業し、将来を考えられる一人の女性との真面目な付き合いを望むようになる。

その姿はまるで、強い自意識と自己顕示欲に支配されて、不良行為や大人への反抗をカッコイイとして憧れる思春期から卒業していく子供のようだ。

中学、高校時代には多くの男が、自分の存在感を示したい、人からよく見られたいという意識で、不良やヤンキーといった悪いものにあこがれる時期がある。

しかし大学生ともなれば、それがカッコ悪いことだと皆が気づくようになり、いまだにヤンキーよろしく、犯罪めいた行動やケンカの成果を自慢したり、悪びれた自分に酔っているようなやつは、相当にイタイか、一生その道に進むような輩だけだ。

女遊びもこれと近いものがあり、数多くの女性と関係を持つことをステータスとし、悪友たちと成果を共有しあうことが楽しくて仕方ない、そんな自分に誇らしさすら感じるような時期があるが、年齢を重ねるにつれ段々と皆そんな世界から離れていくようになる。

社会人として歳を重ねれば、やれ結婚だ、子供が出来た、会社で出世した、起業した、等と理性的な大人の会話が増えてくる中で、いまだに何人とヤッた、クラブでナンパした子を持ち帰った等と自慢し、そんなことばかり話しているやつはかなり次元の低い男としてみなされる。

もちろんある程度、歳を重ねると、キャバクラとか高級クラブとかの別の女遊びが楽しくなってくるし、女性への興味、関心が薄れて来るかというとそんなことは無い。

お互いが合意の上でのオトナの関係とか、色々な事情で、遊びが落ち着いてからも人には言えない関係を持ってしまうこともあると思う。

しかし、若い時にしていたような理性的で無い遊び方、つまり一般の女性を相手に、思ってもいない口説き文句を重ねて誘ったり、時には相手を騙すようなことをして、手段を選ばず不特定多数の女性と関係を持とうとし、それを誇示するような行動はしなくなっていくものだ。

まともな男であれば、嘘をついたり、薄っぺらい言葉を並べて、相手を時に傷付けながら、関係に持ち込むことに昔ほどの達成感を覚えず、むしろ虚しさばかりが残るようになる。

倫理観に反すると知っていながら、自分の快楽を追い求めたり、承認欲求を満たしたりする行為は、いい大人がするものでは無いと、誰もが気づき始めるのだ。

女遊びからいつまでも卒業出来ない人たち

しかし中には、この女遊びからいつまでも卒業出来ない精神年齢がお子様のままの男も一定数存在する。

女遊びからいつまでも卒業できず、まともな恋愛、結婚を出来ないような男は、周りが大人になって就職していくのに、いつまでも悪いことが格好良いと思い込み、イカつい車を乗り回しすぐにケンカをふっかけてくるようなヤンキーと精神構造のレベルは変わらない。

それでも、自分の行為にまだ後ろめたさや虚しさを感じているようならまだマシだが、本気でそれをカッコイイと思っている男もいるから救えない。

女遊びは悪いことだとは思わないし、むしろ歳を重ねてから女性に騙されたり、貢いだり、歪んだ性への欲望を持ったりしないという意味では良い経験ですらある。

皮肉なことに、いくら女性が「真面目で誠実な人がいい」と言っているのを耳にしたところで、現実は経験豊富な男の方が、魅力的で女性を惹きつけることになるのは仕方がない。

女性は「遊び人」という人種を非難し、嫌悪するが、現実として女性から好かれるのはそこそこ遊んできたようなタイプだ。その意味で、経験値を高めるための女遊びは一定の時期に済ませておくべき必要悪とも言える。(そのために女性を騙したり、傷つけたりしても良いことには決してならないけども)

しかし、まともな男ならいつかはそこから卒業していくべきだし、年齢に沿った健全な精神構造を養っていくべきだと思う。

そうでなければ、いつかそのしっぺ返しは自分にくるものだし、何よりあまりカッコイイとは言えない大人へ成り下がってしまうことになる。

 

外資系の成果給制度は品行方正な人間をだめにする

外資系で働く魅力の一つに成果給がある。

営業職であれば売った金額の数%がそのまま「インセンティブ」や「コミッション」と呼ばれる形で臨時ボーナスとして支給され、もし大きな商談を獲得できた時には実入りも相当なものになる。

これがどうして、なかなか中毒性のある仕組みなのだ。

規模の大きくなるであろう商談を見つけると、まだ売れるかも分からないのに、将来入ってくるだろう金額を想定して思わず頬がゆるみ、呼吸が荒くなる。

「1億規模の商談だから、取ったら300万くらいはもらえるかな(゜Д゜)ハアハア」

とかやって、エクセルをはじきながら、入ってくるであろう金額を舌なめずりで計算している姿は、欲にまみれた実に見苦しい光景である。

私は、新卒で大手日系のメーカーで勤めた後、外資系に転職したが、以前の職場ではこのような成果給制度は無かった。

成果を出して評価されれば多少年収が増えることはあるが、売った分だけお金が入ってくるといった分かりやすい仕組みにはなっていない。

当時は、その評価制度に特に不満を持っていたわけでは無く、そもそも成果に見合った収入が欲しいとか、まして売った分だけ金をくれ!なんておこがましいことは考えもしていなかった。

多くの会社では固定給が当たり前だし、経営的な観点から言っても、お金で人のモチベーションを高められないことを著名な経営学者様がおっしゃっていることも知っていた。

それが外資系の評価制度に慣れてしまうと怖いもので、今では、安定した日系企業で働く友人を見ては、「成果給の無い仕事でよくやる気になるなあ」なんて上から目線の、ゲスな考えを持つ人間となってしまった。

外資系企業にいると、転職は当たり前で、よく人材会社や同業他社の人事部からお誘いを頂いたりもするが、その際にも、もはやインセンティブの無い会社には移ろうと思わない。

例えば中途採用会社説明会に足を運び、社長の熱い話を聞いて、「おお、素晴らしい経営理念と魅力的な事業だ」と思ったとしても、「営業は固定給でインセンティブは無いです」と聞くと冷めてしまい、

「まあ、よく考えると、そこまで事業に興味もないし、社長は話は面白いけどスーツの色変だし、ていうかちょっと家から遠いし。」などと自分を納得させて応募を見送ることもしばしば。

まったくお金の力というのは恐ろしいものである。


ちなみに強調しておきたいのだが、私は元々そこまで金銭欲の強い浪費家では無く、どちらかというと堅実なタイプで、物質的な欲求より精神的な満足を重視する方である。

よって、仕事を選ぶときも、事業そのものの魅力とか、成長できる環境かどうかとか、会社の雰囲気や一体感などといった、お金以外の要素を重要視している、高尚な人間であると自負している。

オーダーメイドのスーツと高級時計を身に着けて、キレイな女性を夜景の見える高級フレンチにエスコートして甘い一夜を過ごしたい、、「そのためには金だ!金が必要だ!!」などというやましい願望は、ほんの少ししか持っていない。

 

とはいえ、現実問題としてお金は大事だし、成果としてまとまったお金が入ってきた時に出る脳内麻薬たるや、相当なものなのだ。

そこにはギャンブルで勝った時のようなある種の高揚感、中毒性があるようにも思う。

おそらく、安定して高い収入をもらい続けるより、成果を出した時に、ドカッとお金がもらえる方が刺激的なんだろう。

この喜びを一度味わってしまうと、中々そこから離れるのは難しい。

繰り返すが、私は元々そこまで金銭欲の強い人間では無く、どちらかというと、社会貢献や奉仕の精神を最優先の価値とする、高尚な思想を持った人間である。

投資信託の値上がり幅を見て唾液を飲み込んだり、深夜にパソコンで銀行口座の残高を見てニヤニヤしていることなんていうのは、ごくまれなことだ。


要するに、このように品行方正な私のような人間でさえ、お金の魔力に取りつかせてしまう外資系の評価制度は恐ろしいということだ。

お金は仕事の全てでは無く、仕事に対しては自分の成長や、達成感を求めていきたい。

しかし、仕事の成果として大きなお金を手に入れることは、他では替えがたい魅力であることもまた事実。

金で人を釣って動かそうという発想は、とても下劣で品の無いやり方ではあるが、それを会社の仕組みとして実現してくれる成果給のルールは、一度でもそこで成功を味わってしまった人間をそこから離れなくさせる魔性の制度なのである。

コミットします!気が向いたら

コミット=「強く約束する」「責任を引き受ける」

外資系企業はコミットという言葉が大好きだ。

結果至上主義を高らかに掲げる外資系企業の多くは、経営層、マネージャークラスはもちろん、個々の従業員に対しても、結果に対してのこだわりを強く求める。

「あなたは今期の数字をいくらコミットするのか」

「このプロジェクトにどれだけコミットできているか」

などといった会話が社内で日常的に交わされる。

 

社内でコミットという言葉が意味するものは非常に重く、

「この数字をコミットします」

なんて安易に宣言しようもんなら、結果が出なかった時にはえらい勢いでしばかれる。

「お前、コミットするって言っただろ?」

「どうやってリカバリーするんだ?」

と、厳しく責任を追及される。

それはもう、厳しく追及される。

 

しばしばその責任追及は、自分の努力ではどうしようもないことにまで及ぶ。

時に上から強引に宣言させられたコミットに対して、説明責任を果たさねばならぬこともある。

一緒に目標を立てたはずのマネージャーもいつの間にか敵に回っていたりする。

(これ、あなたも一緒に関わっていた案件なんだけど。。)

(あの時、失敗する確率も高いと報告したはずなんだけど。。)

そんなもんは関係ない。

「だって、コミットしたんでしょ?やるんでしょ?」

はい、そうでした、言わされたような気がしなくもないですが、コミットしたんですよね。

じゃあやりますよ、何があってもね。

 

お客さんが大きなリコールを起こしてしまい商談が吹っ飛んだとしても、

自分が急病でぶっ倒れて2週間仕事が出来なかったとしても、

会社にはなんの関係もないですもんね。

結果は結果ですもんね。

 

やりますよ!!!

 

いつかね、

 

そのうちね、

 

気が向いたらね。

 

でも、今日はとりあえず帰って、ビール飲みながらブログでも書こ。

 

やる気はあるけど、まだ出ない。

そんな気持ちの時に書くブログ。

 

仕事にはコミットが必要だ。

でも、人生にはそんなもんイラね。

 

どうぞよろしく。

 

2015年 秋