外資系リーマンのゆるコミット

必ずやります、たぶんそのうち

遺伝子に想いを馳せると、やっぱり子供は作るべきだと思う

私は以前から「ヒトとして生まれてきたからには、できるだけ子供を作って育てるべきである」思っている。

もちろん、人によって価値観は違うので、あえて子供を作らない夫婦や独身の道を選ぶ人たちを否定するつもりは無い。

また、身体的な問題で子供を作るのが難しいケースがあり、友人・知人で子供に恵まれない人も少なからずいるので、子供を作らない=悪だなんで無神経なことを言うつもりも無い。

しかし、子供を作らない人、結婚しない人の中には、「子供なんてお金がかかるだけだ」とか「結婚して子供がいたら、自分の時間が無くなってしまう」といった、「自分中心の」「目先の」損得で考えを決めてしまっている人もいて、少しもったいない気がしている。

そういう人たちは、子供を作ることについてもっと想像力を働かせて考えてみてもいいと思う。

子供を持つことは、「子供っていざ出来ると可愛い」とか「子供を作ると色々な経験が出来る」とか表面上の損得の話より、もっと大きな意味がある。

それは「後世に自分の遺伝子を残す」という生物として、一番原始的な「目的」を果たせるということだ。

仕事や遊びで忙しい毎日を過ごしていると、私たちは「生物としてまず何をすべきなのか」忘れがち。

「遺伝子を残すため」なんですよね、生物的には。

「遺伝子を残すために生きる」なんて、なんか偏ってて、しかも堅苦しいなーて思われるかもしれないけど、実際、人間以外のほとんどの生物は繁殖のために生きてますから。種が途絶えないよう、命を次の世代に繋ぐために日々獲物を取り、自分を外敵から守り、繁殖活動に勤しむ。

人間だって本来は同じ。人生での成功や失敗はそれぞれあれど、ちゃんと命を存続させて、子供が残せれば、とりあえず「生物的な」人生の目的は達成。

で、そんな学問的な?話はさておき、もっと単純な話「遺伝子を残せた」という実感は、特に人生の終盤で「自分は価値ある人生を送れた」と思えるようになるために、すごく大事なことなんじゃないかと思う。

若いうちは目先の自分のことで精一杯だし、自分が楽しければそれでいいやって思うかもしれないけど、歳を取って、死が近づいてきた時に、「遺伝子を残した」という事実があるかないかで、人生の意味付けが変わってくるように思う。

極端な話、いくら仕事でパッとしなくても、お金がたいして稼げなかったとしても、子供や孫が楽しく人生を送っている所を見たら、満足して一生を終えられるんじゃなかろうか。

自己実現をもたらす子供という存在

「自分が死ぬ前に世の中に何かを残す」

人生の「自己実現」を考える上で、このようなキーワードがあげられることがある。

一部の意識高い人たちは、「死ぬ前に何かを残す」ために「ある分野で大きな実績を残して名を残す」とか、「会社を興して後世に引き継ぐ」といった、壮大な目標を選んで邁進する。

でも、そんなハードルの高い目標よりも、もっと身近で、堅実に何かを残す方法がある。

子供を作ることだ。

私たちの子供は、紛れもなく自分たちが残した財産として、社会、そして世の中に残る。

そして、その子供たちがまた子供を作れば、自分の遺伝子は後世に渡って引き継がれる。

「何かのプロフェッショナルとして歴史に名を残す」、「有名企業の創業者として名前を轟かせる」、こういうこと自体は大変な偉業だが、それが故に誰にでもできることじゃない。

世界の99%の人は、自分の功績で世の中に何かを残す事とは無縁に一生を終える。

でも、遺伝子を後世に残す事は、多くの人に与えられたチャンスだ。

私たちはこの大きな「自己実現」の手段を、もっと積極的に評価すべきだ。

「自分の趣味を楽しみたいから子供は作らない」とか、「人間関係が面倒だから結婚はしない」とか、そんなことを言っていていいのだろうか。

もしかしたら、そんな目先の楽しみ、快適さを優先した結果、本当に大切なことを見逃しているかもしれない。

あえて結婚しない、子供を産まない選択をするのは自由だし、本人がそれで幸せならそれでいいことは確か。

でも、生物としての本質や、死を迎える時に果たして何を後悔するかということに想像を巡らせて、結婚をどうするか、子供どうするかということを考えてみてもいいんじゃないでしょうか。

 

余談だけど、「命を存続させて、遺伝子を残す」という生物としての基本命題に対して、日本の今の環境ってマジで異常。何しろ「命を存続させる」どころか命を自ら断つ人が多い、「遺伝子を残す」どころか少子化に向かっているんだから。生活が豊かになっているのに、生物としての目的は果たしにくくなっている環境ってどんな皮肉なんだろう。悲しい事だ。

「遺伝子を残すために生きる」という話は、私自身、リチャードドーキンスの「利己的な遺伝子」という本にかなり影響を受けております。私たち生物は遺伝子を後世に受け継ぐための「乗り物」である、という衝撃的な説を色んな実験や例とともに示した本。

利己的な遺伝子 <増補新装版> | リチャード・ドーキンス, 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 |本 | 通販 | Amazon

若い世代が外資系を選ぶことで避けられる一番のリスク

以前も、「外資系企業で働くことのリスクは巷で思われているより高くない」ことを書いた。

yurucommit.hatenablog.jp

最近改めて、外資系企業の魅力について感じることがある。

それは「極端にダメな人がいない」ということである。

「ダメな人」だなんてすごい傲慢な表現だけど、やっぱり世の中にはいるんですよ、やる気もスキルも著しく低い人たちが、、

別に仕事への価値観や姿勢は人それぞれだし、楽してテキトーに毎日を過ごすことはそれはそれでいい。

でも、成長著しい若手がこういった人たちと強制的に働かせられるのは大変もったいない。

外資系企業を選ぶことによって、高い意識を持った若いビジネスマンが「成長機会を奪われるリスク」を避けることができるかもしれない。

一般的に外資系企業は優秀な人が多い、とはよく言われる話だが、ここでは「優秀な人が多い」という点ではなく、「ダメな人がいない」ことの利点について掘り下げてみたい。

外資系企業と一口に言っても社員のスキルレベルは会社によってまちまちだが、共通して言えるのは極端にパフォーマンスが悪い人は会社にほとんどいないということだ。

多くの日系企業では、特に出世競争に敗れた中高年層を中心に、残念ながらスキルも意欲もなく「この人はやばい」と思うような人が一定数存在する。

それらの人達は、元々の能力が低いというより、長いサラリーマン人生の中で、厳しい経験をしてこなかったとか、ぬるま湯につかりすっかり身も心も緩んでしまったという場合が多い。

昔どんなにやる気に満ち溢れた若いビジネスパーソンだった人も、数十年という時間の過ごし方を間違えれば、徐々にやる気と能力は低下していく。

外資系企業ではそういったビジネスマンとして枯れてしまった人達というのがほぼ存在しない。

理由はもちろん、そういった人達は自然と淘汰されるからである。

明確な役割と価値をもたらしていない、モチベーションが著しく低いと判断されると会社にはいられない。

偶然紛れ込めたとしても、周りからの風当たりが次第に強くなり、途中でクビになるか本人が会社に居づらくなり自然とどこかに去っていく。

 残った人は自然と、最低限の意欲と能力を持った人達ということになる。

 

このことは、ビジネスマンとして成長期にある若手が外資系を選ぶ大きな理由になりうる。

それは、「ダメな人と働かなければならない」という「ハズレくじ」を引く確率が非常に低いからだ。

もともと、意識の高い学生が会社を選ぶ理由として「優秀な人と働きたい」ということを上げるのは定番になっているが、実は「優秀な人と働けるかどうか」ということよりむしろ、「ダメな人と働かなくて済むか」ということの方が健全な社会人としての成長を考える上で、何倍も重要である。

思うに、元々能力があり意欲もある人というのは、周りに優秀な人がいなくても自分で勝手に伸びていく。

配属された部署に尊敬できるような人がいなかったとしても、他の部門で手本になるような人を見つけたり、お客様からの叱咤激励を受けながら成長のヒントを得ていくことが出来る。

「優秀な人が周りにいない」ことより、「ダメな人と強制的に働かせられる」ことの方が問題はより深刻である。

モチベーションやスキルが極端に無い、自分で行動はしないのに人の批判ばかりする、人の足を引っ張ったり士気を下げるような言動を繰り返す。

このように仕事への姿勢や人間性に問題がある人がもし上司や先輩になってしまうことは、能力と意欲がある若手にとって大変大きなリスクである。

 

まず問題なのは、ダメな人に仕事のレベルを合わせるという不毛な気遣いをしなければならないことである。

特に多くの日本企業では年齢による上下関係がことさら重視されるため、能力のある若手のワンマンプレーは強い反発を受けやすい。

周りとうまくやっていくためには、ダメな人たちにある程度気を使って仕事をしなければならないが、成長期にある若手にとってこのようなブレーキは無駄以外の何物でもない。

世間には自分より凄い人達がゴマンといて、彼らに追いつくために毎日成長しなければならない若手が、何が悲しくて枯れたおじさん達に気を遣って足を止めなければならないのだろう。

例えば、Jリーガーの中に一人、二人中学生が混ざっていたとしたら、そのメンバーにだけはゆっくりとしたパスを送らなければならない。

そんなことをしているうちに、一流の選手が求めるパスが出せなくなっていく。

ダメな人と働くことはそんなリスクを抱えることを意味する。

そして、何より怖いのがそのモチベーションの低さに自分も知らず知らずのうちに毒されてしまい、その人たちと同質化してしまうことだ。

周囲の影響というのは、自分が思っているほどに強く、また多くの日本企業の場合、協調性や連帯意識が重視されるので、知らず知らずのうちに危機感の無いゆったりしたペースに自分も巻き込まれてしまう。

適当に仕事をして、立ち飲み屋で延々と会社や上司の愚痴を言っているような人達と時間を過ごしていれば、いつしかそれが心地よくなり、ましてそうしてみんなと仲良くしている方が会社から評価されるなら、それでいいやと思ってしまうのも仕方がない。

 

もし、最もビジネスマンとして成長できる20代をこのような「ダメな人たち」と過ごしてしまったら、そこから一念発起したとしても、もう一流の環境で、一流の人達と仕事をすることは非常に難しいと言っていい。

厳しい環境にいて修羅場をくぐってきた人達は、相手がどれだけの意欲を持って仕事をしてきたかをすぐに見抜く。

この人は十分な経験を積んでいない、危機感を持って仕事をしてこなかった、と思われたら対等な立場で相手をしてもらうことはできない。

「ダメな人」と一緒に時間を過ごすことは、優秀な若手の未来を潰してしまうほど非常に大きなリスクなのである。

このようなリスクは、成長を考えて大きく成功したいと考える若手ビジネスマンにとってはぜひ考えて頂きたいポイントである。

自分が定年を迎えるまで、今いる企業が存在しているかなんて誰にもわからない時代。

企業の規模や目先の安定にとらわれない職場選びが益々重要になってくる。

 

先輩命令でやらされた後輩のナンパが成功して場がしらけた話

後輩が先輩からイジられたり、無茶ぶりされたりするのは、我が国の伝統的な慣習と言える。

全国の後輩クン達は、外見やキャラクターを笑いのネタにされることもあれば、飲み会で大量の酒を飲まされたり、一発芸をやらされたりして日々悪戦苦闘する。

このような「後輩いじり」の定番として、「後輩や若手に女の子をナンパさせる」というものがある。

お酒の席や、その後の帰り道などで悪酔いした先輩軍団が、「おい、お前あの子達に声かけてこい!」と仕事の
勢いさながらの指令を出し、後輩はしぶしぶ玉砕覚悟で突進していく。

後輩クンが戸惑いながらアタックする姿を見て、歳を重ねて、すでにナンパする機会や度胸を失った先輩達は、面白さ半分、優越感半分で、その光景を頬をゆるめながら見つめる。

一方後輩クンとしては、いくら先輩の命令とはいえ、女の子達の前でカッコ悪い所は見せたくない。

幸い、外見やトークにはそこそこ自信はある。

仕事ではおっさん達の下僕として毎日コキ使われているかもしれないが、若さとルックスではあいつらには負けやし ない、という自負もある。

そんなプライド、闘争心を胸に秘め、突撃!

 

トークを頑張る、愛嬌を振舞う、女の子を褒める、ギャグを飛ばす!

 結果…

見事、LINEをゲット!!!

なんなら、その場で飲みに行けそうな雰囲気すらある。

「勝った!俺は期待に応え、成果を上げたのだ!」

達成感と満足感で一気にテンションが上がる後輩クン。

後ろを振り返ればそこには先輩達の目。

結果を出して戻った自分に、賛辞と賞賛の言葉が浴びせられるに違いない。

そう、初めて仕事で大きな商談をまとめたあの時のように。

期待に胸を膨らませる後輩クン。

早足で先輩軍団の輪に帰還し、「あの子たち、一緒に飲んでもいいって言ってますがどうしますか?」と声高らかに成果を告げ、輝いた目をして先輩たちの返答を待つ。

ところが、先輩たちの表情は明らかに曇っている。

さっきまでのバカ騒ぎが嘘のようにしらけている。

そう、先輩たちは別に後輩クンのナンパが成功することなど望んでいなかったのだ。

あっけなくフラれて、恥をかいて、戻ってきた後輩をいじり倒す。

それが彼らが求めていた結末だった。

「今日はそんな感じじゃないからいーでしょ。お前行って来いよ」

そっけなく言う先輩軍団の一人。

結局、後輩クンも気まずくなってその場を静かに後にした。


これは先日会社の飲み会帰りに、実際にあった出来事である。

男というのは実に難しい。

後輩は確かにかわいいし、自分が仕事を教えた後輩が仕事で成果を上げている姿を見るのは嬉しいものだ。

しかし、どこかでライバル心もある。

仕事だって、今は自分の方が出来るとは分かっていても、いつ追い抜かれるかは分からない。

ましてやプライベート、特に対女性関係において、男性的な魅力としては年々外見も勢いも衰えてる自分より、後輩クンの方が若い女の子にモテることもあるだろう。

その事実、現実を少しでも見せつけられたようなこの一件は、先輩軍団にとって全く面白いおかしい物では無かったのである。

そうでなくとも、後輩をいじるという目的でナンパをさせているのに、彼がモテてしまっては元も子も無い、つまらないだけだ。

女性の嫉妬は怖いとよく言うが、男の嫉妬も中々のものである。

実際に、女性にモテるイケメンが出世しにくいという話も聞いたことがあるが、これは何も女性関係に限った話では無く、仕事が出来すぎることによって上から疎まれることも会社ではよくある話だ。

ここで、全ての後輩クン達に伝えたいのは、「後輩たるもの常に道化であれ」ということだ。

本当は、先輩軍団より君たちの方が、女性との出会いも豊富で、女性から見て魅力もあるのかもしれない。

しかしそんな事実を先輩の前で突きつけるようなことはあってはならない。

後輩たるもの、原則は先輩や上司を立て、常に彼らに満足感を提供しなければならないのだ。

特に、若い時からあまり女性に縁が無かったような人に対してはなおさらである。

昔からモテなかった。そのコンプレックスを逆なでするような後輩に、愛情を注げるわけはない。

男はプライドの生き物である。

そしてそのプライドは、あまりにも小さなことで、あっけなく破綻する。

このことは特に会社の上下関係において気を付けなければならない、極めて重要な真理だ。

「後輩のナンパが成功したら場がしらけた一件」はそんなことを改めて実感した一幕だった。

お金があってこそ、お金で買えない物の価値に気づくジレンマ

人生にはある程度のお金は必要だが、お金で買えない物こそが人生にとってより重要である。

こんな当たり前のことに気が付くまで、かなり時間がかかった。

世の中、お金では買えない大切なものが実に多い。

家族や友人との人間関係や、持続的な健康、やりがいのある仕事に、没頭できる趣味。

お金で買えないものこそが人生に幸福をもたらしてくれると今では強く思う。

特に良好な人間関係は、豊かな人生を送るために極めて重要で、それを裏付けるこんな研究も世界で行われている。

(from TED TALK)

www.ted.com

 

自分が、お金で買えない物が重要だと思えるようになったのは、皮肉にも、ある程度お金が稼げるようになったからだ。

別にいやらしい自慢をするつもりではなく、運良く仕事で成果を出すことが出来て、その年ばかりはそれなりの収入を得られたことがある。

外資系ならではの一過性の稼ぎなので、将来の保証など全くないが、とにもかくにもある程度のお金を得ることが出来た。

そうしてお金を手にすることによって、お金で実現できることなど、実はたいしたことでは無いと気が付いてしまったのだ。

これは自分にとって非常に幸運なことだった。

何しろ、ある程度のお金を得ることによって、お金の呪縛から解き放たれることが出来たからだ。

仕事を必死に頑張ってきて、ある程度お金を稼げるようになると、昔から欲しい欲しいと憧れていたモノやサービスを手にすることが出来るようになった。

高級ブランドのスーツや時計、ハイスペックのIT機器や家電製品、有名店の豪華ディナーに海外リゾート地でのバカンス。

いずれも学生や社会人になり立ての頃は、勝ち組の象徴としていつかは実現したいと夢描いていた贅沢を、幸運にも概ね経験することが出来た。

しかしそれらは、一度手にしてみるとほとんどが、自分にとってさほど重要でないものばかりだった。

一瞬の満足感や喜びは得られるものの、長く深い幸福感をそこから得られることは無かった。

むしろ、生活レベルが上がり贅沢を経験すればするほど、それに対しての有難みや喜びは薄れていくばかりだ。

確かにお金はあるに越したことは無い。

快適な住居の中で便利な生活をし、美味しい物を食べ、旅行や観光で経験の幅を広げて、家族にも余裕のある暮らしを提供できる。

お金があることによって、日々の生活が充実することは明らかだ。

しかし一方で、お金で得られる人生の満足感なんてものはたかが知れている。

お金は、所詮モノやサービスを消費するための手段だ。

モノやサービスは、短期的な快楽や利便性を得るためには必要だが、それらがあれば人生が全て満たされるというものでも決して無い。

お金さえあれば、絶対的に幸せな人生が送れるというのは間違いだ。

例えいくらお金があったとしても、健康や、家族や、友人や、熱中できる仕事や趣味といった「お金では得られない物」が欠けている人生は不幸だ。

反対に、例えお金がそこまで多くは無かったとしても、これらの重要な物を持ってさえいれば、強い満足感を得られることは可能だと思う。

それくらい、「お金で得られない物」は非常に重要だ。

にもかかわらず、お金が放つ魔力は、その事実を人から忘れさせるほどにあまりにも強い。

人は往々にして、お金を得るために、「お金で得られない物」を犠牲にしてしまう。

収入を得るために仕事に没頭して家族との時間を犠牲にしたり、お金のために友人を裏切ったりなんていう話は日常茶飯事だ。

お金への呪縛が、時に人を不幸にしてしまう。

そして皮肉なことに、お金の呪縛から解き離たれるための一番有効な方法は、必要十分なお金を実際に得ることだ。

お金を得て、お金でやりたいことをおおよそやり尽くし、欲求を解消しない限り、中々お金の魔力からは逃れられない。

そうしてお金に対して過度な幻想や期待を持たなくなることによって、お金で買えない物がより輝いて見えるものだ。

お金を著しく稼いだ経営者は社会貢献に注力するようになり、また富裕層の家に育った子供は、お金より自身の信念のために生きるという。

お金を得ることによってこそ、見えてくる景色というものもそこにはあるのだろう。

彼らのような階層の人達とは比べ物にはならないが、幸運にも自分が満足できるだけの収入を一時的にでも得ることが出来た。

そこで見えてきた、お金で買えないものの価値をよく頭に刻みつけて、優先順位を間違えないように人生を送りたいものである。

新聞記事のスクラップはどうしても時代遅れの習慣に思えてしまう

先日、出張先に向かう新幹線の車中で「新聞記事のスクラップを張り集めたノート」を大事そうに見返している40代半ばと見られるビジネスマンがいて、衝撃を受けた。

この時代にまだそんな習慣を持っている人がいることに驚いたと同時に、失礼な話ではあるが、その方のITスキルの低さ、変化対応力の無さを勝手に推し量ってしまった。


私も社会人なり立ての頃、上司や先輩から「新聞記事のスクラップ」を薦められたことがある。

ビジネスマン御用達である「日経新聞」から重要な記事、興味を持ったトピックを切り抜いて保管し、後で見返して役立てるという自己啓発とも言える習慣だ。

当時は私も、せっせと新聞を切り抜いてファイルに保管しては、気まぐれにそれを眺めたり、読み返したりしていた時期があった。

あれから十数年。

今や周りで「日経新聞をスクラップしている」なんていう話を聞くことはなくなった。

Webコンテンツの充実やスマホの普及で、新聞に頼らずとも様々な方法で情報を得たり、保存しておくことが可能になったからだ。

もはや、新聞を紙で読んでいる人も少なくなってきたし、ましてやその記事をわざわざ切り抜いて保管している人なんて絶滅危惧種に近いんじゃないか。

もちろん、全く新聞を読まないより、新聞をしっかり読み込んで、その記事を何度も見返すような人の方が、経済やビジネスへの感度や意欲は高いのかもしれない。

また、切り抜き記事を集めることで、コレクション願望が満たされたり、私には想像もつかない点でメリットがあるのかもしれない。実際、この時代だからこそあえてアナログのスクラップを推奨する経済人、著名人もいるようだ。

しかし、今のIT全盛時代における「新聞のスクラップ」は、見る人が見れば「ITリテラシーが低い」「効率が悪い」と思われても仕方のない行為だ。

ビジネスの情報収集や勉強のやり方は、個人のやりやすいように自由にするべきだが、いまどき紙の新聞をノートに張り集めることが「効率的」で「効果的」なものだとはどうしても思えない。

紙のスクラップをコツコツ集めている姿は、他に便利で効率的な情報整理のやり方を「知らない」か、その方法を「使いこなせていない」ように見えてしまう。

未だに音楽をMDプレイヤーで聞いていたり、携帯電話を持っていなかったりしたら驚かれるように、技術やITの進化には現代人として最低限対応していかなければ、変化に疎い時代遅れの人とみなされる。

そして、個人的にはあまりこういう人たちと仕事をしたいとは思わない。

もし、シニアのビジネスマンでこのような昔ながらの習慣を続けている人がいたら、私のようなひねくれた見方をする人間もいることを知って頂きたいし、たとえ50代、60代でもipadKindleEvernoteDropboxを使いこなしている人がいることを意識してもいいと思う。

 

科学や技術の進歩と共に、時代は変化している。

昔ながらの方法が時に有効なこともあるが、それにこだわってばかりでは人間は進化しない。

石が無くなったから石器時代が終わったわけではない。

石が残っているからといって、大事に石器を使っていてはいつまでも原始人のままだ。

全てを先端の技術で固める必要は無いが、大きな時代の変化、技術の進歩には何歳になっても対応していきたいものである。

プライドが高い者同士による、プライドを守るための静かで醜い争い

年末年始、しばらく顔を合わせていなかった友人たちと久しぶりに再会する機会が多かったが、そこで何度か「プライドを守るための戦い」を目にした。

人は自分と他人を比べたがる生き物だ。

人と比べて劣っていることにコンプレックスを感じ、人より優れていることには優越感を覚える。

特にプライドが高い者同士が出合えば、相手より優れている所を見つけてはプライドを満たそうとする心理が働く。

男は仕事や、収入や、地位を比較しあい、

女は恋愛や、容姿や、幸福度で競い合う。

「あいつより俺の方が稼いでいて、仕事も充実している」とか、

「いつまでも独り身のあの子と比べて、私は結婚もして子供もいて幸せだ」というように、

たとえ意識せずとも他人と自分を比べている。

相手とあまり付き合いが無い場合はもちろん、親しい友人の間であっても、いや、むしろ親しい間柄の方がなおさら比べることが多いかもしれない。

親しい友人の間であれば、いかに関係を崩さずにプライドを満たすかという「静かで醜い」争いが繰り広げられていく。

 

そこで、冒頭のくだりだ。

年末の、とある飲み会は大学時代の友人たち、男女数人でのものだった。

男は業種や規模は違えどそれなりの仕事に就き、女はバリバリOLや専業主婦まで様々な道を歩んでいた。

お酒もほどよく回ったところで、ある友人男性Aが、

「俺、今年仲間と起業してさ、六本木にオフィス構えてITベンチャーやってる」

と仕事の近況を報告し始めた。

その口ぶりには、リスクを取り会社を興した者特有の、誇りと自信が感じられた。

Aの仕事内容を少し聞いた後、隣に座っていた大手金融機関に勤める友人男性Bが、

「すげーじゃん!起業は中々リスクがあって大変だよな。俺、ITベンチャーやってる社長何人か知ってるから誰か紹介しよっか?」

という業界人脈をアピールしつつの、やや上から目線的なサポート提供を申し出たのだ。

Aは、話の腰を折られたのが少し不満そうに、「おーそうだな。まあ今のとこ仕事は好調だし、サラリーマン時代よりも自由にやれて楽しいよ。俺も社長の知り合いはそこそこいるから、またなんかあった時頼むわ」

と、会社勤めをあえて「サラリーマン」と表現しながら、そっけない態度で対応した。

束の間、そこに微妙な空気が漂ったのを男たちは敏感に察知した。

そして誰が始めるとも無く、すぐさま学生時代のバカ話、女性関連の下世話な話題へとトークの舵が切られていった。

 

みんなそれぞれ、自分の仕事にはプライドを持っている。

一流企業に入ったり、起業したりするような奴ならなおさらだ。

そのプライドを傷つけたり否定することは、例え友人同士でも、いや友人だからこそあってはならないのだ。

友人関係を円満にするためには、本当の争いになる前に戦いを避けることが必要だ。

男たちはそのことを十分わかっている。

成果を誇り、アピールしたいが、衝突は避けたい。

そんな自尊心と気遣いの合間で男たちの会話は絶妙なバランスを保っているのだった。

 

一方で、女性たちは「独身組」と「結婚組」で明らかに立場が分かれて、そこにも確かに「プライドを守る戦い」が起きていた。

友人女性Cは、渋谷の某Web関係の会社に勤めている独身キャリアウーマンだ。

仕事は芸能界とも関わりがあり、なかなか華やかなモノらしい。

Cは「最近立ち上げたサービスのプレスで、ジャニーズと仕事したんだけど○○って実物は足が短くて、全然かっこよくなかったよ」

と、話題性のあるトークを振り込んだ。

芸能人をいじることによって、嫌味の無いよう表現はされているものの、その口ぶりは自分が華やかな仕事をしているという「ドヤ感」に溢れていたものだった。

Cのオブラートな「仕事アピール」に、積極的に感嘆の声や相槌を打つ女子たち。

たいして興味が無い人もいただろうが、相手の話を上手く受け入れる(ふりをする)女性のスキルには脱帽だ。

Cの話が一通り終わった後、友人女性Dが口を開く。

彼女は2年前に結婚して仕事を辞め、今は一児のママである。

「華やかな仕事で楽しそうー!私なんて結婚してから旦那と子供の相手ばっかりで大変だよ。仕事してた頃が懐かしいなー」

文字で表現すると単なる感想と近況であるが、その口ぶりは「まだ働いてるなんて大変だね」と言わんばかりの嫌味とも取れる言い方にも感じられた。

Dは「でも家族円満で幸せそうじゃーん。まあ私は結婚はまだいいかな。仕事がもう少し落ち着いてからで。」

と、誰も聞いていない自身の結婚願望を補足しながらコメントしていた。

このやりとりは会話の一コマであるが、その後も「独身組」と「結婚組」で、違う立場に分かれた上でのトークが続いた。

そして、そのうちの誰もが、口ではお互いを羨ましい、憧れると言いながらも、本心からその思いを持っているようには感じられなかった。

「こちらの立場の方が幸せだ」という見えない争い、「自分が持っているもの」を頑なに守ろうとする自意識がそこにあったように思えてならなかった。

いや、これについては私があまりにもひねくれたうがった見方をし過ぎているのかもしれない。

本当は、みんな単に思いや感想を口にし、素直に相手の立場を尊重していただけなのかもしれない。

しかし少なくともその場に居合わせた限りは、いわゆる「マウンティング女子」のやりとりを目にした思いに駆られ、背筋が寒くなったのだった。

 

人は「自分が持っているもの」と「相手が持っていないもの」により比較をする。

そこで自分が持っているものに誇りを持ち、プライドを満たそうとする。

「同じものを持っているもの同士」の冷戦に近い争いはいつも身の回りにあるし、

「違うものを持っているもの同士」の互いに大事なものを守り合う戦いもよく見られる。

これらの争いはともすると見苦しくて滑稽なものであるが、プライドや自尊心を持つことは人間ならではの個性だ。

そこから繰り広げられる人間模様は、なかなか面白いし、プライドが活動のエネルギーになることもあるから捨てたもんじゃない。

人はこれからも比較をして、互いに競い続ける生き物なんだろう。

そんな哲学に浸った年の瀬。

私も小さくて不毛なプライドを大切にして今年も頑張って行こうと思う。

Facebookはもはや一部のKYのためのツールに成り下がっている

Facebookを見て不快感を覚えるようになったのは今に始まったことじゃない。

イタイ男の仕事自慢や既婚女子の子供自慢にはもううんざりだ。

自己アピールや承認欲求を満たすための記事なんて見たくないし、あなたが昼に何を食べたかなんてことも興味がない。

海外行ってきます!という空港での無意味なチェックインもいらないし、政治や経済について持論を語るのは居酒屋でやってほしい。

そもそもFacebookは徐々に、一部のKYの人のためだけのものに成り下がっている気がする。

仲の良い友人たちや好意を持つ同僚、先輩の投稿はFacebookからすっかり消えた。

自分自身も、文句を言いながら時々覗きには行くものの、投稿はここ数年ほとんどしていない。

Facebookに投稿する人が少なくなったのは、Facebookが「普及しすぎたこと」に原因があると思う。

Facebookはあまりに一般的なコミュニティになりすぎて、もはやそこにプライベート感は無くなった。

投稿した情報は、親しい友達だけではなく、飲み会で一度だけ会った人、会社の同僚や上司、取引先や遠い親戚にまで拡散されていく。

こうなると、Facebookはもはや公の場だ。

そこで公開した内容は自分の知人、あらゆる人の目にさらされる。

普通の人はこのような環境で、気軽に投稿することをためらう。

Facebookがユーザーを増やすに連れ、そこで情報を発信する時の息苦しさは増している。

そこで、躊躇なく自己アピールや日々のどうでもいいことを投稿できるのは一部のKYだけだ。

この手の人は元がKYであるがゆえ、周りからの目という意識が無いので、投稿もイタイ内容が増える。

自慢話や中身の無い話を見たら、周りがどう思うかという配慮はそこには無い。

Facebookのユーザーが増えたことで、KYの人しか投稿しないようになり、その投稿がイタイので普通の人はFacebookから距離を置くようになり、益々一部の人しか投稿しなくなるという悪循環にもはやFacebookは陥っているのではないか。

ここまで言うと、だったら使わなきゃいいだけの話だということになるが、少ないとはいえ興味ある投稿があることは確かだし、遠い友人の近況がわかって面白いこともある。

ただ、これらのメリットよりも、KYで汚染された情報に不快感を覚える要素の方が大きくなったなら、その時はFacebookから卒業することになるし、そのタイミングは刻一刻と迫っているように思える。

Facebookは人を繋ぐインフラとしてしばらくは残り続けるだろうが、もはやとっくにクールで魅力的なツールでは無くなっているのかもしれない。