外資系リーマンのゆるコミット

必ずやります、たぶんそのうち

【警告】パソコンをWindowsからMacに変えようとしている人達は覚悟して欲しい

会社のパソコンをWindowsからMacに変えてみて、「改革」とか「変化」に対抗する人の気持ちが少し分かった。

10数年使ってきたWindowsから、半年ほど前にMacに乗り換えてみたのだが、これがどうしてめんどくさい。

決して、Macが不便とか使いにくいとかでは無いのだが、10数年続けている「習慣」や「やり方」を変えるのがしんどくてたまらんのだ。

Windowsを使い続けている人の中には、気分転換のためにーとか、なんかオシャレだからーと、軽ーい気持ちでMacに乗り換えようとしている人もいると思う。

そのこと自体を悪く言うつもりは無いが、これまでの「習慣」を変えることはそれなりに面倒だということを認識しておいて欲しい。

 

所詮どちらもパソコンなのだから、WindowとMacも大差ない、と思いきや細かい仕様が色々と異なっている。

例えば、WindowsMacでは、複数のキーを使う「ショートカット」のコマンドが違う。

一例をあげると、Excelで数字を合計したい時によく使う「オートSUM」。

Windowsの場合、[Shift]+[Alt]+[=]だが、Macの場合[command]+[Shift]+[T]だ。

いや、[T]って。覚えられんわこんなん。

合計を意味する「Total」の[T]なのか?と思ってそれで覚えたけど、またしばらくしたら、「あれ、なんだっけ?Sumの[S]だっけ?みたいになるし」

てか、[command]ってなんやねん。誰やお前。

隣にも見たこと無い[option]ってのもいるし。未だにどっちがどっちかわからん。

アプリを強制終了する時に使うコマンドも、Windowsでは[Ctrl]+[Altr]+[delete]だけど、Macでは[command]+[option]+[esc]だ。

出た、新参者[command]+[option]のダブル使い!

彼らは隣にいるからまだいいとして、いっっつも[esc]と[delete]を押し間違える。

だって、windowsでは[delete]だったんだもん。

10数年[Ctrl]+[Altr]+[delete]押してたら、そりゃ[delete]押すでしょ。

で、[command]+[option]+[delete]って押すんだけど、当然何も起きない。

でも間違いを認められなくて何度も押す。「あれ、おかしいな。接触悪いのか?おいコラ(パチパチ!!)」て感じで。

そんでコマンドが違うのに気づいても、どこが違うのか忘れちゃったから、調べるのもめんどくさい。適当に色々押してみたら、全然違うコマンドが発動してさらにイライラする。

「もうアプリ消すのやめよ」みたいになる。

この無駄な時間返せし。

 …ちょっと興奮して分かる人にしか分からない話をしてしまった。

 

とにかく、他にもたくさんのコマンドがWindowsMacでは違う。

よく使っているものは、なんとかしようとするけど、「そこそこ使っていたもの」がやっかい。

一度覚えてもしばらくしたらまた忘れたり、何とかしようと思ってもついつい覚えるのを先送りにしてしまう。

モノによっては、新しいものを覚えるのが面倒で、使わなくなってしまったコマンドもある。

新しいやり方を覚える手間より、多少不便でも楽な方を選ぶという。悲しい怠惰な人間のサガ。。

だいたい、長く使っているコマンドなんてのはもはや習慣の一部になってるわけで、これを変えるのはかなりしんどいわけですよ。

これまた男しかわからないと思うけど、「ストリートファイター」の波動拳のコマンドは「↓+↘︎+→+パンチ」だ。それは新作が何本出ていても30年(!)ずーっと変わらない伝統であり文化だ。

これがもし、次回作から波動拳は「↓+↙︎+←+パンチ」になります。となったら、世界中のゲーマー達が混乱する。

全国で、空コマンドにより立ち往生するリュウやケンや豪鬼が続出する。

コマンドというのは、その操作に慣れていればいるほど、変えるのがしんどいものなのだ。

WindowsからMacに変えようとしている人は、コマンドを覚え直す「覚悟」を持ってこちらの世界に来て欲しい。

 

また、Windows7からの機能で多用していた、「2画面分割」の機能が無いのも不便だ。

Windowsでは、ウィンドウを分割したい時は、一つを左端にドラッグ、もう一つを右端にドラックしたら簡単に2分割された。

スムーズに二つの画面を見ながら作業が出来てとても便利なのだが、残念ながら、Macにこの機能は無い。

Macの場合、ウィンドウを端に持っていくとそのまま画面の端を突き抜けてしまう。

おーい、どこ行くんだお前。

素直にちっちゃくなってくれんかな。

 

もっともこれについては、アプリを活用したり、複数デスクトップを使えば解決になることを最近知った。

でもこれもコマンドと一緒で、「今までと同じこと」をするために手間がかかったり、やり方を変えることが面倒なわけですよ。

他にもWindowsMacでは、「フォルダ構造の考え方が違う」「ウィンドウのボタンが違う」といった様々な違いが存在する。

Windows御用達の「マイドキュメント」が「書類」という名前だったり。「書類」って!Windowsが「書類」でMacが「マイドキュメント」の方がなんとなく合ってるやん。

とにもかくにも、これらに馴染むのにはそれなりに時間と手間がかかるのは必至である。

 

もちろんMacに変えたことによるメリットもあった。

iphoneipadとの連携なんかはそれで、ファイルを無線でやりとりできるAir Dropなんかはすごく便利。また、トラックパッドも非常に操作性が高く、Macにしてからマウスいらずになったくらい直感的な操作が出来る。

ただ、でもね、 それで生産性が2倍、3倍になったかというとそれは無いんだよね。

ここは、ちょっと便利だよね。というくらい。

私がもっとクリエイティブツールをガンガンに使いこなしていたり、IT大好き人間でMacの様々なアプリ、ツールを使いこなしていればそれも違うのかもしれない。

でも残念ながら私はそこまでハイレベルな使い方をしようとしない、フツーのビジネスマンユーザー。

Macを開いてスタバでドヤ顔して顕示欲を満たす人間でも無い(今時いないかそんなの)

こういった普通の人間にとっては、「Macによって得られた新しい価値」よりも「Macに変えたことによる面倒さ」の方が大きいのでした。。

やっぱり、何か物事を変える時は、

変えることにかかる労力 < 変えることによるメリット

でないと、結果としてそれは良い決定じゃなかったのかなと思う。

経験という意味ではMacを使ってみたことは良かったけど、効果という意味では微妙。

なんでも変えればいいってものでは無いのだなー。

切符からSuicaに変えるみたいに「簡単に変えられて、圧倒的に便利」だったらすぐ変えるべきだけど、そうで無い場合は少しは考えないとね。

 

PC変えたっていうちっちゃい話からはちょっと大げさだけど、「改革」とか「変革」が必ずしもいいことばかりでは無いってことを学んだ気分。

IT企業の仕事柄、普段お客様に対して「改革」を迫ることがあって、それに抵抗する人達を「保守的」だの「消極的」だのと思ってしまうこともあるけど、「変える」ってのはしんどいんだよね、やっぱり。

コンサルとかITベンダーの人達は「改革」「変革」をお客さんに迫るけども、何かを変えるしんどさと、それによるメリットのバランスを本当に理解しているのかな、と。

自分のこととなると、パソコン一つ変えただけで意外とヒーヒー言うかもしれませんぞ。 

産後クライシス 〜なぜ男と女は出産を機にすれ違うのか〜

ある調査によると、夫婦の離婚率は子供が出来てから、0歳〜2歳までの間に最も高くなるらしい。

子供が出来た後に、夫婦仲が冷め切ってしまうことを俗に産後クライシスと呼ぶ。

matome.naver.jp

たとえそれまでラブラブだった夫婦でも、子供が出来たことをきっかけに一気に関係が悪化することも多いようだ。

人生で最も喜ばしいはずの出産というイベントのはずが、どうしてそのような危機に繋がってしまうのか。

その原因については諸説あるが、私の感覚としては、子供が出来る前と後では男女の「ベクトル」が変わってしまうことに原因があると思う。

つまり、お互いの意識や関心が、出産というイベントをきっかけに違う方向を向いてしまうのだ。

それぞれのベクトルがどのように変化して夫婦関係の悪化をもらたしてしまうのか、順番に見ていきたい。

①恋人時代・出産前

まず、子供が出来る前、特に結婚前や新婚時代は、男と女、それぞれのベクトルは常にお互いを向いている。

もちろん、仕事や趣味、友人といった恋人以外のことにも時間を割いたり、熱中することはあるが、少なくとも2人で過ごしているうちはお互い相手に意識が向くことになる。

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その際に、それぞれの仕事や趣味や友人といった2人の外にある世界のことは、邪魔なものというよりむしろ2人の関係を深める上での話題やネタとなり、スパイスとして機能する。

それぞれが持っている世界から、共通の話題を見つけたり、価値観をすり合わせたりして、お互いを理解していく。

 ②出産後

この関係性が一変するのが、子供が出来た時だ。

ここで、女性のベクトルは一気に夫から子供へと向かう。

以前も、女性のベクトルは夫以外の所、つまり趣味や仕事にも向いてはいた。しかし明らかに前と違うのは、「2人でいる時」にも関わらず、女性のベクトルが夫以外である子供に向いてしまうことだ。

2人の世界に初めて現れる第三者の介入である。

ここで、多くの男性は非常にショックを受ける。

おいおい、俺といるのに俺が一番じゃないのかよ、と男はいつまでもガキなのでいじけてしまうのだ。

一方で年齢的にも仕事が面白くなってきて、男は埋められない寂しさを紛らわすように益々仕事に没頭していく(人によっては遊びに没頭していく。。)

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男は残念ながら、女性のようにすぐに子供にベクトルを向けられるように出来ていない。女性に対しても、相変わらず自分に多くの注意を払ってくれるよう求めるのだ。

男は以前と変わらず、子供のことと同じくらいかそれ以上に、自分の仕事や趣味や価値観の話を女性に聞いてほしいと願う。

しかし残念ながら、子供にベクトルが向いている女性の前では、以前は会話のスパイスとなっていた男性の仕事の話や、趣味の話は急激に色あせて灰色の粉と化す。

なぜなら、女性が彼の話に集中できたのは、夫である男性にベクトルが向いていたからだ。

別に夫のことが嫌いとかどうでもよくなるとかそういうわけでなくとも、多くの場合、子供が産まれた直後の女性のベクトル配分は子供99%:その他1%である。

もはや、夫の世界にまつわる話は、女性にとって自分の関心度1%の情報、まさに埃程度の価値のものに成り下がるのだ。

一方で、男性の方はちょうど仕事も面白くなる時期で、やりがいや手応えを感じている時だ。

時には、家に帰ってからも仕事のことが頭から離れず色々考えてしまうこともある。

しかし、子供が出来たばかりの妻は家で育児に奔走しており、なんとなく自分とは別の世界にいる。

以前は仕事をしていた妻も、今は完全に母親モードで、そんな妻に中々仕事の話をする気にはなれず、仕事のことは自分の中だけで消化しようとする。

例え、仕事の話を持ち出したとしても、子供に99%の意識が向いている妻の前では、自分の話など所詮1%の埃程度の価値しか(ry

すると、妻と共有出来る話というのが少なくなり、会話にギャップが生まれることが増える。

自分は仕事のことで頭がいっぱいでも、それをなるべく出さないようにして、どこか人ごとのような妻の育児の話に耳を傾ける。

妻の話を聞けば聞くほど、妻が自分とは違う世界で違う方向を向いて生きているような気がしてしまい、すれ違っているような気分になってしまうのだ。

一方、妻はこのような夫の気持ちは中々理解できず、仕事ばかりで育児に協力してくれない場合は、夫に不満を持つようになる。

何しろ自分のベクトルはほぼ子供に向いているのだから、そこに関与してくれない存在など無いものと一緒である。

こうして、夫は仕事を中心とした外の世界、妻は子供を中心とした家庭の世界と、完全に夫婦のベクトルはバラバラになり、以前のようにお互いがお互いに向き合い、理解し合うことが難しくなっていくのだ。

結果、一つ屋根の下で同じ空間を共にしているのに、それぞれが意識している先は全く違うという悲劇が生まれる。

結婚に関する名言に、『互いに向き合うのが恋人、夫婦は同じ方向を向く』なんていうフレーズあるが、皮肉にも子供の存在によって夫婦がバラバラの方向を見るきっかけになってしまうのだ。

 ③安定期

これがいわゆる産後クライシスなるもののメカニズムなのだが、これもしばらくすると状況が変わってくる。

まず、ある程度子供が大きくなってくると、妻にも余裕が出てきて、夫のことをケアできるようになってくる。

一方で、夫の方は子供が大きくなってくるにつれ表情や反応が出てくるようになってきて、子供に愛着が出てくる。

遅ればせながら男にも親の自覚というものが芽生え始める。

同時に妻に労いの気持ちが出てきたり、何より、夫婦が揃って子供という同じ方向を見れるようになる。

妻と同じように夫が子供の方も見れるようになると、妻との共通の会話も増え、関係も良くなり、一度失われた妻から夫へのベクトルも少しずつ戻っていくようになる。

さらに、妻が仕事に復帰したりすれば、また外の世界で闘う者同士、共感できることも増えていく。

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このような状況になってようやく、夫婦同じ方向を見るという先の格言が実現するのだ!(涙)

ここまでの道のりは決して平坦ではないし、何よりお互いがお互いの立場を尊重してあげることが不可欠だ。

そうでなければ、産後すぐ離婚という悲しい結末を招いてしまうし、そうでなくとも夫婦のベクトルがズレたまま一生を過ごすという切ない未来が待っていることになる。

このような危機を迎えないためにも、産後、2人のベクトルがずれることは仕方がないことと理解して、相手の立場に立ち、我慢の時を過ごすことが必要だ。

明けない夜はない。出口の無いトンネルはない。

いつかはまた分かり合える時が来る。

産後クライシスを乗り越えた先にも、残念ながら以前の2人のように、お互いに常にベクトルを向いている状態はもう二度とこないかも知れない。

でも、バラバラのベクトルの状態を乗り越えて、2人が同じ方向を向けるようになった時には、これ以上無い強い絆が2人に生まれているはずだ。

この言葉を結びとして、全国の産後クライシスに悩む皆さんにエールを送りたい。

 

自由を求める人は営業の仕事なんてどうでしょう

私は外資系IT業界の営業の仕事が長いのだが、これまで何度か営業以外の職種に移るチャンスがあった。

でも色々と人の話を聞いたり考えたりして、結果としては今も営業の仕事を続けている。

その理由は、「営業こそ自分の天職なのだ!」と強く信じていること、、というわけでは残念ながら無い。

まぁそれなりに仕事にプライドを持ってやってはいるし、性格的に営業に向いている方だとは思うが、「これが自分の天職だ!」と胸を張って言えるほどピュアな感情は持ち合わせていない。

それでも、なんだかんだ営業の仕事を続けてしまうのは大きく二つの理由がある。

それらは「色々な人と会って人間的に成長できる」とか「お客さんから信頼され、貢献の実感がある」とか美しい理由では、残念ながら無い。(無くはないけど、成長や貢献はどんな仕事でも実現できると思うしね)

まず一つは、売れた分だけ稼げるというインセンティブ制度の魔力だ。

やればやるだけ稼げる、なんてどことなくブラック臭がするし、ハタから見れば品の無い仕組みだが、これは一度体験してみないとその達成感や中毒性はわからないと思う。成果を出した分だけ、収入に跳ね返る。これを一度味わうと固定給の仕事には中々戻れない。

yurucommit.hatenablog.jp

もう一つは、他の職種に比べて圧倒的に「自由」であることだ。もちろん、自営業や経営者など、サラリーマンの枠を越えれば自由な仕事はいくらでもあるし、同じ営業でもガチガチなマネジメントに縛られたキー○ンスのように自由とは言えない会社もある。

しかし、いわゆる外資系ITの多くの営業は、とにかくも他の職種に比べて「自由」なのだ。

ではどの点で自由なのか?

具体的に言うと以下の通りだ。

①仕事の場所を選べる

営業はお客さんと会ってナンボだから、会社にいなくて当たり前。そして、外にいる限り何をしていようが会社の人には分からない。必要が無ければ会社に行く必要も無い。

天気が悪かったり二日酔いで体調が悪かったりしたら家にこもって仕事したっていいし、お気に入りのカフェを渡り歩きながらやったっていい。とにかく自分が好きな場所で仕事をしてオッケーだ。

昔ながらの大企業で経営企画や財務の仕事をする友人がいるが、会議の予定も無いのに長時間席を外していたりすると、周りから不自然に思われるというのだから同情する。

自分が一番集中できる環境を、気分によって選ぶことが出来るのはなんとも開放的だし、仕事を進める上でも効率的だ。

②仕事の時間を選べる

時間を選べるというのはいくつかの意味があって、まず成果を出しさえすれば勤務時間は問われない点。多くの営業は裁量労働制だから、好きな時間に働き始めて、好きな時間に仕事を終わらせられる。

午前中は予定が無いからゆっくり過ごして、商談が早めに終わったら夕方から飲みに行ってるなんて話もザラだ。早帰りを推奨するプレミアムフライデーなんて、元々が自由な営業にはなんの関係もない話だ。

また自由という意味で結構大きいのが、自分の予定をかなりの範囲でコントロール出来ることだ。よほどややこしいお客さんを抱えていない限り、商談の予定はある程度自分で調整出来るし、社内のミーティングについても営業がアレンジする事が多いため、自分の予定を優先させてスケジューリングする事ができる。

自分の予定を自分で組み立てられるというのは、実は結構ぜいたくなことで、例えば、社内のコンサル部門では、優秀なメンバーになるほど営業や他部門からの相談や依頼で、気がつけば勝手にカレンダーが埋まっていくという。プロジェクトが佳境に入れば急なミーティングもザラだ。翌日の資料の準備をしたいのに、別件の打ち合わせで午後いっぱい埋まっていたりすると、夜やらなければ、、と気分が滅入るらしい。

営業であれば、重いプレゼンの前にあえて予定を空けてじっくり準備なんてことも可能だが、そのコントロールが出来なくなるのは、もはや私には耐え難い。

③仕事をする相手を選べる

誰と仕事をするか、ある程度選ぶことが出来るのも営業の特権だ。

まず社内に関して、営業は提案チームのリーダーとなりメンバーをアレンジする事ができる。もちろん商談に勝つためにベストなメンバーを集めるわけだが、仕事が微妙な人はもちろん、単にウマが合わない人達のことも避けて、自分が信頼できるメンバーだけを集めてチームを組むことも可能だ。社内に良い人がいなければ他社の人達と仕事をしても良い。こんな権限を持つのは営業くらいのものだ。

また、営業先であるお客さんだってその気になれば選ぶことが出来る。気が合わないお客さん、自分がやる気になれない会社には行かず、それ以外の所から売上を上げていればなんの問題もない。この点、社内のサポート部門に所属する同僚は、やっかいなお客さんを持つことになったものの、投げ出すわけには行かず頭を抱えていた。まぁそういう苦労から学べることもあるんだけどね。私はもういいや。

 

このように、ざっと上げただけでも場所・時間・人という仕事だけで無く人生においてすごく重要な要素において営業という仕事は自由でいられるのだ。つまり、選択権と裁量権があり、自分でリソースをコントロール出来る。

その意味での自由度は経営者のそれに近い。外資系の営業が、しばしば個人事業主と言われる所以だ。もちろん、経営者ほど全体を見れるわけではないが、サラリーマンというリスクの低い立場でこれだけ自由な職業もかなりレアだと思う。

ただ、これは裏を返すと常に主体性が求められ、何もかも自分で決めて動かないといけないことを意味してるんだけどね。受身タイプの人は、決められた時間に席にいれば給料がもらえて、黙っていても仕事が振ってくる環境の方が落ち着くだろう。

この辺は相性と価値観だと思うけど、自分で仕事をコントロールしたい、裁量権を持ちたいというタイプの人は営業という職種を一つオススメしたい。お金も稼げるのでどの会社がオススメか聞きたい方はメッセージをお待ちしております。笑

遺伝子に想いを馳せると、やっぱり子供は作るべきだと思う

私は以前から「ヒトとして生まれてきたからには、できるだけ子供を作って育てるべきである」思っている。

もちろん、人によって価値観は違うので、あえて子供を作らない夫婦や独身の道を選ぶ人たちを否定するつもりは無い。

また、身体的な問題で子供を作るのが難しいケースがあり、友人・知人で子供に恵まれない人も少なからずいるので、子供を作らない=悪だなんで無神経なことを言うつもりも無い。

しかし、子供を作らない人、結婚しない人の中には、「子供なんてお金がかかるだけだ」とか「結婚して子供がいたら、自分の時間が無くなってしまう」といった、「自分中心の」「目先の」損得で考えを決めてしまっている人もいて、少しもったいない気がしている。

そういう人たちは、子供を作ることについてもっと想像力を働かせて考えてみてもいいと思う。

子供を持つことは、「子供っていざ出来ると可愛い」とか「子供を作ると色々な経験が出来る」とか表面上の損得の話より、もっと大きな意味がある。

それは「後世に自分の遺伝子を残す」という生物として、一番原始的な「目的」を果たせるということだ。

仕事や遊びで忙しい毎日を過ごしていると、私たちは「生物としてまず何をすべきなのか」忘れがち。

「遺伝子を残すため」なんですよね、生物的には。

「遺伝子を残すために生きる」なんて、なんか偏ってて、しかも堅苦しいなーて思われるかもしれないけど、実際、人間以外のほとんどの生物は繁殖のために生きてますから。種が途絶えないよう、命を次の世代に繋ぐために日々獲物を取り、自分を外敵から守り、繁殖活動に勤しむ。

人間だって本来は同じ。人生での成功や失敗はそれぞれあれど、ちゃんと命を存続させて、子供が残せれば、とりあえず「生物的な」人生の目的は達成。

で、そんな学問的な?話はさておき、もっと単純な話「遺伝子を残せた」という実感は、特に人生の終盤で「自分は価値ある人生を送れた」と思えるようになるために、すごく大事なことなんじゃないかと思う。

若いうちは目先の自分のことで精一杯だし、自分が楽しければそれでいいやって思うかもしれないけど、歳を取って、死が近づいてきた時に、「遺伝子を残した」という事実があるかないかで、人生の意味付けが変わってくるように思う。

極端な話、いくら仕事でパッとしなくても、お金がたいして稼げなかったとしても、子供や孫が楽しく人生を送っている所を見たら、満足して一生を終えられるんじゃなかろうか。

自己実現をもたらす子供という存在

「自分が死ぬ前に世の中に何かを残す」

人生の「自己実現」を考える上で、このようなキーワードがあげられることがある。

一部の意識高い人たちは、「死ぬ前に何かを残す」ために「ある分野で大きな実績を残して名を残す」とか、「会社を興して後世に引き継ぐ」といった、壮大な目標を選んで邁進する。

でも、そんなハードルの高い目標よりも、もっと身近で、堅実に何かを残す方法がある。

子供を作ることだ。

私たちの子供は、紛れもなく自分たちが残した財産として、社会、そして世の中に残る。

そして、その子供たちがまた子供を作れば、自分の遺伝子は後世に渡って引き継がれる。

「何かのプロフェッショナルとして歴史に名を残す」、「有名企業の創業者として名前を轟かせる」、こういうこと自体は大変な偉業だが、それが故に誰にでもできることじゃない。

世界の99%の人は、自分の功績で世の中に何かを残す事とは無縁に一生を終える。

でも、遺伝子を後世に残す事は、多くの人に与えられたチャンスだ。

私たちはこの大きな「自己実現」の手段を、もっと積極的に評価すべきだ。

「自分の趣味を楽しみたいから子供は作らない」とか、「人間関係が面倒だから結婚はしない」とか、そんなことを言っていていいのだろうか。

もしかしたら、そんな目先の楽しみ、快適さを優先した結果、本当に大切なことを見逃しているかもしれない。

あえて結婚しない、子供を産まない選択をするのは自由だし、本人がそれで幸せならそれでいいことは確か。

でも、生物としての本質や、死を迎える時に果たして何を後悔するかということに想像を巡らせて、結婚をどうするか、子供どうするかということを考えてみてもいいんじゃないでしょうか。

 

余談だけど、「命を存続させて、遺伝子を残す」という生物としての基本命題に対して、日本の今の環境ってマジで異常。何しろ「命を存続させる」どころか命を自ら断つ人が多い、「遺伝子を残す」どころか少子化に向かっているんだから。生活が豊かになっているのに、生物としての目的は果たしにくくなっている環境ってどんな皮肉なんだろう。悲しい事だ。

「遺伝子を残すために生きる」という話は、私自身、リチャードドーキンスの「利己的な遺伝子」という本にかなり影響を受けております。私たち生物は遺伝子を後世に受け継ぐための「乗り物」である、という衝撃的な説を色んな実験や例とともに示した本。

利己的な遺伝子 <増補新装版> | リチャード・ドーキンス, 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 |本 | 通販 | Amazon

若い世代が外資系を選ぶことで避けられる一番のリスク

以前も、「外資系企業で働くことのリスクは巷で思われているより高くない」ことを書いた。

yurucommit.hatenablog.jp

最近改めて、外資系企業の魅力について感じることがある。

それは「極端にダメな人がいない」ということである。

「ダメな人」だなんてすごい傲慢な表現だけど、やっぱり世の中にはいるんですよ、やる気もスキルも著しく低い人たちが、、

別に仕事への価値観や姿勢は人それぞれだし、楽してテキトーに毎日を過ごすことはそれはそれでいい。

でも、成長著しい若手がこういった人たちと強制的に働かせられるのは大変もったいない。

外資系企業を選ぶことによって、高い意識を持った若いビジネスマンが「成長機会を奪われるリスク」を避けることができるかもしれない。

一般的に外資系企業は優秀な人が多い、とはよく言われる話だが、ここでは「優秀な人が多い」という点ではなく、「ダメな人がいない」ことの利点について掘り下げてみたい。

外資系企業と一口に言っても社員のスキルレベルは会社によってまちまちだが、共通して言えるのは極端にパフォーマンスが悪い人は会社にほとんどいないということだ。

多くの日系企業では、特に出世競争に敗れた中高年層を中心に、残念ながらスキルも意欲もなく「この人はやばい」と思うような人が一定数存在する。

それらの人達は、元々の能力が低いというより、長いサラリーマン人生の中で、厳しい経験をしてこなかったとか、ぬるま湯につかりすっかり身も心も緩んでしまったという場合が多い。

昔どんなにやる気に満ち溢れた若いビジネスパーソンだった人も、数十年という時間の過ごし方を間違えれば、徐々にやる気と能力は低下していく。

外資系企業ではそういったビジネスマンとして枯れてしまった人達というのがほぼ存在しない。

理由はもちろん、そういった人達は自然と淘汰されるからである。

明確な役割と価値をもたらしていない、モチベーションが著しく低いと判断されると会社にはいられない。

偶然紛れ込めたとしても、周りからの風当たりが次第に強くなり、途中でクビになるか本人が会社に居づらくなり自然とどこかに去っていく。

 残った人は自然と、最低限の意欲と能力を持った人達ということになる。

 

このことは、ビジネスマンとして成長期にある若手が外資系を選ぶ大きな理由になりうる。

それは、「ダメな人と働かなければならない」という「ハズレくじ」を引く確率が非常に低いからだ。

もともと、意識の高い学生が会社を選ぶ理由として「優秀な人と働きたい」ということを上げるのは定番になっているが、実は「優秀な人と働けるかどうか」ということよりむしろ、「ダメな人と働かなくて済むか」ということの方が健全な社会人としての成長を考える上で、何倍も重要である。

思うに、元々能力があり意欲もある人というのは、周りに優秀な人がいなくても自分で勝手に伸びていく。

配属された部署に尊敬できるような人がいなかったとしても、他の部門で手本になるような人を見つけたり、お客様からの叱咤激励を受けながら成長のヒントを得ていくことが出来る。

「優秀な人が周りにいない」ことより、「ダメな人と強制的に働かせられる」ことの方が問題はより深刻である。

モチベーションやスキルが極端に無い、自分で行動はしないのに人の批判ばかりする、人の足を引っ張ったり士気を下げるような言動を繰り返す。

このように仕事への姿勢や人間性に問題がある人がもし上司や先輩になってしまうことは、能力と意欲がある若手にとって大変大きなリスクである。

 

まず問題なのは、ダメな人に仕事のレベルを合わせるという不毛な気遣いをしなければならないことである。

特に多くの日本企業では年齢による上下関係がことさら重視されるため、能力のある若手のワンマンプレーは強い反発を受けやすい。

周りとうまくやっていくためには、ダメな人たちにある程度気を使って仕事をしなければならないが、成長期にある若手にとってこのようなブレーキは無駄以外の何物でもない。

世間には自分より凄い人達がゴマンといて、彼らに追いつくために毎日成長しなければならない若手が、何が悲しくて枯れたおじさん達に気を遣って足を止めなければならないのだろう。

例えば、Jリーガーの中に一人、二人中学生が混ざっていたとしたら、そのメンバーにだけはゆっくりとしたパスを送らなければならない。

そんなことをしているうちに、一流の選手が求めるパスが出せなくなっていく。

ダメな人と働くことはそんなリスクを抱えることを意味する。

そして、何より怖いのがそのモチベーションの低さに自分も知らず知らずのうちに毒されてしまい、その人たちと同質化してしまうことだ。

周囲の影響というのは、自分が思っているほどに強く、また多くの日本企業の場合、協調性や連帯意識が重視されるので、知らず知らずのうちに危機感の無いゆったりしたペースに自分も巻き込まれてしまう。

適当に仕事をして、立ち飲み屋で延々と会社や上司の愚痴を言っているような人達と時間を過ごしていれば、いつしかそれが心地よくなり、ましてそうしてみんなと仲良くしている方が会社から評価されるなら、それでいいやと思ってしまうのも仕方がない。

 

もし、最もビジネスマンとして成長できる20代をこのような「ダメな人たち」と過ごしてしまったら、そこから一念発起したとしても、もう一流の環境で、一流の人達と仕事をすることは非常に難しいと言っていい。

厳しい環境にいて修羅場をくぐってきた人達は、相手がどれだけの意欲を持って仕事をしてきたかをすぐに見抜く。

この人は十分な経験を積んでいない、危機感を持って仕事をしてこなかった、と思われたら対等な立場で相手をしてもらうことはできない。

「ダメな人」と一緒に時間を過ごすことは、優秀な若手の未来を潰してしまうほど非常に大きなリスクなのである。

このようなリスクは、成長を考えて大きく成功したいと考える若手ビジネスマンにとってはぜひ考えて頂きたいポイントである。

自分が定年を迎えるまで、今いる企業が存在しているかなんて誰にもわからない時代。

企業の規模や目先の安定にとらわれない職場選びが益々重要になってくる。

 

先輩命令でやらされた後輩のナンパが成功して場がしらけた話

後輩が先輩からイジられたり、無茶ぶりされたりするのは、我が国の伝統的な慣習と言える。

全国の後輩クン達は、外見やキャラクターを笑いのネタにされることもあれば、飲み会で大量の酒を飲まされたり、一発芸をやらされたりして日々悪戦苦闘する。

このような「後輩いじり」の定番として、「後輩や若手に女の子をナンパさせる」というものがある。

お酒の席や、その後の帰り道などで悪酔いした先輩軍団が、「おい、お前あの子達に声かけてこい!」と仕事の
勢いさながらの指令を出し、後輩はしぶしぶ玉砕覚悟で突進していく。

後輩クンが戸惑いながらアタックする姿を見て、歳を重ねて、すでにナンパする機会や度胸を失った先輩達は、面白さ半分、優越感半分で、その光景を頬をゆるめながら見つめる。

一方後輩クンとしては、いくら先輩の命令とはいえ、女の子達の前でカッコ悪い所は見せたくない。

幸い、外見やトークにはそこそこ自信はある。

仕事ではおっさん達の下僕として毎日コキ使われているかもしれないが、若さとルックスではあいつらには負けやし ない、という自負もある。

そんなプライド、闘争心を胸に秘め、突撃!

 

トークを頑張る、愛嬌を振舞う、女の子を褒める、ギャグを飛ばす!

 結果…

見事、LINEをゲット!!!

なんなら、その場で飲みに行けそうな雰囲気すらある。

「勝った!俺は期待に応え、成果を上げたのだ!」

達成感と満足感で一気にテンションが上がる後輩クン。

後ろを振り返ればそこには先輩達の目。

結果を出して戻った自分に、賛辞と賞賛の言葉が浴びせられるに違いない。

そう、初めて仕事で大きな商談をまとめたあの時のように。

期待に胸を膨らませる後輩クン。

早足で先輩軍団の輪に帰還し、「あの子たち、一緒に飲んでもいいって言ってますがどうしますか?」と声高らかに成果を告げ、輝いた目をして先輩たちの返答を待つ。

ところが、先輩たちの表情は明らかに曇っている。

さっきまでのバカ騒ぎが嘘のようにしらけている。

そう、先輩たちは別に後輩クンのナンパが成功することなど望んでいなかったのだ。

あっけなくフラれて、恥をかいて、戻ってきた後輩をいじり倒す。

それが彼らが求めていた結末だった。

「今日はそんな感じじゃないからいーでしょ。お前行って来いよ」

そっけなく言う先輩軍団の一人。

結局、後輩クンも気まずくなってその場を静かに後にした。


これは先日会社の飲み会帰りに、実際にあった出来事である。

男というのは実に難しい。

後輩は確かにかわいいし、自分が仕事を教えた後輩が仕事で成果を上げている姿を見るのは嬉しいものだ。

しかし、どこかでライバル心もある。

仕事だって、今は自分の方が出来るとは分かっていても、いつ追い抜かれるかは分からない。

ましてやプライベート、特に対女性関係において、男性的な魅力としては年々外見も勢いも衰えてる自分より、後輩クンの方が若い女の子にモテることもあるだろう。

その事実、現実を少しでも見せつけられたようなこの一件は、先輩軍団にとって全く面白いおかしい物では無かったのである。

そうでなくとも、後輩をいじるという目的でナンパをさせているのに、彼がモテてしまっては元も子も無い、つまらないだけだ。

女性の嫉妬は怖いとよく言うが、男の嫉妬も中々のものである。

実際に、女性にモテるイケメンが出世しにくいという話も聞いたことがあるが、これは何も女性関係に限った話では無く、仕事が出来すぎることによって上から疎まれることも会社ではよくある話だ。

ここで、全ての後輩クン達に伝えたいのは、「後輩たるもの常に道化であれ」ということだ。

本当は、先輩軍団より君たちの方が、女性との出会いも豊富で、女性から見て魅力もあるのかもしれない。

しかしそんな事実を先輩の前で突きつけるようなことはあってはならない。

後輩たるもの、原則は先輩や上司を立て、常に彼らに満足感を提供しなければならないのだ。

特に、若い時からあまり女性に縁が無かったような人に対してはなおさらである。

昔からモテなかった。そのコンプレックスを逆なでするような後輩に、愛情を注げるわけはない。

男はプライドの生き物である。

そしてそのプライドは、あまりにも小さなことで、あっけなく破綻する。

このことは特に会社の上下関係において気を付けなければならない、極めて重要な真理だ。

「後輩のナンパが成功したら場がしらけた一件」はそんなことを改めて実感した一幕だった。

お金があってこそ、お金で買えない物の価値に気づくジレンマ

人生にはある程度のお金は必要だが、お金で買えない物こそが人生にとってより重要である。

こんな当たり前のことに気が付くまで、かなり時間がかかった。

世の中、お金では買えない大切なものが実に多い。

家族や友人との人間関係や、持続的な健康、やりがいのある仕事に、没頭できる趣味。

お金で買えないものこそが人生に幸福をもたらしてくれると今では強く思う。

特に良好な人間関係は、豊かな人生を送るために極めて重要で、それを裏付けるこんな研究も世界で行われている。

(from TED TALK)

www.ted.com

 

自分が、お金で買えない物が重要だと思えるようになったのは、皮肉にも、ある程度お金が稼げるようになったからだ。

別にいやらしい自慢をするつもりではなく、運良く仕事で成果を出すことが出来て、その年ばかりはそれなりの収入を得られたことがある。

外資系ならではの一過性の稼ぎなので、将来の保証など全くないが、とにもかくにもある程度のお金を得ることが出来た。

そうしてお金を手にすることによって、お金で実現できることなど、実はたいしたことでは無いと気が付いてしまったのだ。

これは自分にとって非常に幸運なことだった。

何しろ、ある程度のお金を得ることによって、お金の呪縛から解き放たれることが出来たからだ。

仕事を必死に頑張ってきて、ある程度お金を稼げるようになると、昔から欲しい欲しいと憧れていたモノやサービスを手にすることが出来るようになった。

高級ブランドのスーツや時計、ハイスペックのIT機器や家電製品、有名店の豪華ディナーに海外リゾート地でのバカンス。

いずれも学生や社会人になり立ての頃は、勝ち組の象徴としていつかは実現したいと夢描いていた贅沢を、幸運にも概ね経験することが出来た。

しかしそれらは、一度手にしてみるとほとんどが、自分にとってさほど重要でないものばかりだった。

一瞬の満足感や喜びは得られるものの、長く深い幸福感をそこから得られることは無かった。

むしろ、生活レベルが上がり贅沢を経験すればするほど、それに対しての有難みや喜びは薄れていくばかりだ。

確かにお金はあるに越したことは無い。

快適な住居の中で便利な生活をし、美味しい物を食べ、旅行や観光で経験の幅を広げて、家族にも余裕のある暮らしを提供できる。

お金があることによって、日々の生活が充実することは明らかだ。

しかし一方で、お金で得られる人生の満足感なんてものはたかが知れている。

お金は、所詮モノやサービスを消費するための手段だ。

モノやサービスは、短期的な快楽や利便性を得るためには必要だが、それらがあれば人生が全て満たされるというものでも決して無い。

お金さえあれば、絶対的に幸せな人生が送れるというのは間違いだ。

例えいくらお金があったとしても、健康や、家族や、友人や、熱中できる仕事や趣味といった「お金では得られない物」が欠けている人生は不幸だ。

反対に、例えお金がそこまで多くは無かったとしても、これらの重要な物を持ってさえいれば、強い満足感を得られることは可能だと思う。

それくらい、「お金で得られない物」は非常に重要だ。

にもかかわらず、お金が放つ魔力は、その事実を人から忘れさせるほどにあまりにも強い。

人は往々にして、お金を得るために、「お金で得られない物」を犠牲にしてしまう。

収入を得るために仕事に没頭して家族との時間を犠牲にしたり、お金のために友人を裏切ったりなんていう話は日常茶飯事だ。

お金への呪縛が、時に人を不幸にしてしまう。

そして皮肉なことに、お金の呪縛から解き離たれるための一番有効な方法は、必要十分なお金を実際に得ることだ。

お金を得て、お金でやりたいことをおおよそやり尽くし、欲求を解消しない限り、中々お金の魔力からは逃れられない。

そうしてお金に対して過度な幻想や期待を持たなくなることによって、お金で買えない物がより輝いて見えるものだ。

お金を著しく稼いだ経営者は社会貢献に注力するようになり、また富裕層の家に育った子供は、お金より自身の信念のために生きるという。

お金を得ることによってこそ、見えてくる景色というものもそこにはあるのだろう。

彼らのような階層の人達とは比べ物にはならないが、幸運にも自分が満足できるだけの収入を一時的にでも得ることが出来た。

そこで見えてきた、お金で買えないものの価値をよく頭に刻みつけて、優先順位を間違えないように人生を送りたいものである。

新聞記事のスクラップはどうしても時代遅れの習慣に思えてしまう

先日、出張先に向かう新幹線の車中で「新聞記事のスクラップを張り集めたノート」を大事そうに見返している40代半ばと見られるビジネスマンがいて、衝撃を受けた。

この時代にまだそんな習慣を持っている人がいることに驚いたと同時に、失礼な話ではあるが、その方のITスキルの低さ、変化対応力の無さを勝手に推し量ってしまった。


私も社会人なり立ての頃、上司や先輩から「新聞記事のスクラップ」を薦められたことがある。

ビジネスマン御用達である「日経新聞」から重要な記事、興味を持ったトピックを切り抜いて保管し、後で見返して役立てるという自己啓発とも言える習慣だ。

当時は私も、せっせと新聞を切り抜いてファイルに保管しては、気まぐれにそれを眺めたり、読み返したりしていた時期があった。

あれから十数年。

今や周りで「日経新聞をスクラップしている」なんていう話を聞くことはなくなった。

Webコンテンツの充実やスマホの普及で、新聞に頼らずとも様々な方法で情報を得たり、保存しておくことが可能になったからだ。

もはや、新聞を紙で読んでいる人も少なくなってきたし、ましてやその記事をわざわざ切り抜いて保管している人なんて絶滅危惧種に近いんじゃないか。

もちろん、全く新聞を読まないより、新聞をしっかり読み込んで、その記事を何度も見返すような人の方が、経済やビジネスへの感度や意欲は高いのかもしれない。

また、切り抜き記事を集めることで、コレクション願望が満たされたり、私には想像もつかない点でメリットがあるのかもしれない。実際、この時代だからこそあえてアナログのスクラップを推奨する経済人、著名人もいるようだ。

しかし、今のIT全盛時代における「新聞のスクラップ」は、見る人が見れば「ITリテラシーが低い」「効率が悪い」と思われても仕方のない行為だ。

ビジネスの情報収集や勉強のやり方は、個人のやりやすいように自由にするべきだが、いまどき紙の新聞をノートに張り集めることが「効率的」で「効果的」なものだとはどうしても思えない。

紙のスクラップをコツコツ集めている姿は、他に便利で効率的な情報整理のやり方を「知らない」か、その方法を「使いこなせていない」ように見えてしまう。

未だに音楽をMDプレイヤーで聞いていたり、携帯電話を持っていなかったりしたら驚かれるように、技術やITの進化には現代人として最低限対応していかなければ、変化に疎い時代遅れの人とみなされる。

そして、個人的にはあまりこういう人たちと仕事をしたいとは思わない。

もし、シニアのビジネスマンでこのような昔ながらの習慣を続けている人がいたら、私のようなひねくれた見方をする人間もいることを知って頂きたいし、たとえ50代、60代でもipadKindleEvernoteDropboxを使いこなしている人がいることを意識してもいいと思う。

 

科学や技術の進歩と共に、時代は変化している。

昔ながらの方法が時に有効なこともあるが、それにこだわってばかりでは人間は進化しない。

石が無くなったから石器時代が終わったわけではない。

石が残っているからといって、大事に石器を使っていてはいつまでも原始人のままだ。

全てを先端の技術で固める必要は無いが、大きな時代の変化、技術の進歩には何歳になっても対応していきたいものである。

プライドが高い者同士による、プライドを守るための静かで醜い争い

年末年始、しばらく顔を合わせていなかった友人たちと久しぶりに再会する機会が多かったが、そこで何度か「プライドを守るための戦い」を目にした。

人は自分と他人を比べたがる生き物だ。

人と比べて劣っていることにはコンプレックスを感じ、人より優れていることには優越感を覚える。

特にプライドが高い者同士が出合えば、互いの尊厳を守るためのハイレベルな戦いが始まる。

男は仕事や、収入や、地位を比較しあい、

女は恋愛や、容姿や、幸福度で競い合う。

「あいつより俺の方が稼いでいて、仕事も充実している」とか、

「いつまでも独り身のあの子と比べて、私は結婚もして子供もいて幸せだ」というように、

たとえ意識せずとも他人と自分を比べている。

相手とあまり付き合いが無い場合はもちろん、親しい友人の間であってもそれは同じだ。

親しい友人の間であれば、いかに関係を崩さずにプライドを満たすかという「静かで醜い」争いが繰り広げられていく。

 

そこで、冒頭のくだりだ。

年末の、とある飲み会は大学時代の友人たち、男女数人でのものだった。

男は業種や規模は違えど、みなそれなりの仕事に就き、女は仕事大好きのOLや専業主婦まで様々な道を歩んでいた。

お酒もほどよく回ったところで、ある友人男性Aが、

「俺、今年仲間と起業してさ、六本木にオフィス構えてITベンチャーやってる」

と仕事の近況を報告し始めた。

その口ぶりには、リスクを取り会社を興した者特有の、誇りと自信が感じられた。

Aの仕事内容を少し聞いた後、隣に座っていた大手金融機関に勤める友人男性Bが、

「すげーじゃん!起業は中々リスクがあって大変だよな。俺、ITベンチャーやってる社長何人か知ってるから誰か紹介しよっか?」

という業界人脈をアピールしつつの、やや上から目線的なサポート提供を申し出たのだ。

Aは、話の腰を折られたのが少し不満そうに、「おーそうだな。まあ今のとこ仕事は好調だし、サラリーマン時代よりも自由にやれて楽しいよ。俺も社長の知り合いはそこそこいるから、またなんかあった時頼むわ」

と、会社勤めをあえて「サラリーマン」と表現しながら、そっけない態度で対応した。

束の間、そこに微妙な空気が漂ったのを男たちは敏感に察知した。

そして誰が始めるとも無く、すぐさま学生時代のバカ話、女性関連の下世話な話題へとトークの舵が切られていった。

 

みんなそれぞれ、自分の仕事にはプライドを持っている。

一流企業に入ったり、起業したりするような奴ならなおさらだ。

そのプライドを傷つけたり否定することは、例え友人同士でも、いや友人だからこそあってはならないのだ。

友人関係を円満にするためには、本当の争いになる前に戦いを避けることが必要だ。

男たちはそのことを十分わかっている。

成果を誇り、アピールしたいが、衝突は避けたい。

そんな自尊心と気遣いの合間で男たちの会話は絶妙なバランスを保っているのだった。

 

一方で、女性たちは「独身組」と「結婚組」で明らかに立場が分かれて、そこにも確かに「プライドを守る戦い」が起きていた。

友人女性Cは、渋谷の某Web関係の会社に勤めている独身キャリアウーマンだ。

仕事は芸能界とも関わりがあり、なかなか華やかなモノらしい。

Cは「最近立ち上げたサービスのプレスで、ジャニーズと仕事したんだけど○○って実物は足が短くて、全然かっこよくなかったよ」

と、話題性のあるトークを振り込んだ。

芸能人をいじることによって、嫌味の無いよう表現はされているものの、その口ぶりは自分が華やかな仕事をしているという「ドヤ感」に溢れていたものだった。

Cのオブラートな「仕事アピール」に、積極的に感嘆の声や相槌を打つ女子たち。

たいして興味が無い人もいただろうが、相手の話を上手く受け入れる(ふりをする)女性のスキルには脱帽だ。

Cの話が一通り終わった後、友人女性Dが口を開く。

彼女は2年前に結婚して仕事を辞め、今は一児のママである。

「華やかな仕事で楽しそうー!私なんて結婚してから旦那と子供の相手ばっかりで大変だよ。仕事してた頃が懐かしいなー」

文字で表現すると単なる感想と近況であるが、その口ぶりは「まだ働いてるなんて大変だね」と言わんばかりの嫌味とも取れる言い方にも感じられた。

Dは「でも家族円満で幸せそうじゃーん。まあ私は結婚はまだいいかな。仕事がもう少し落ち着いてからで。」

と、誰も聞いていない自身の結婚願望を補足しながらコメントしていた。

このやりとりは会話の一コマであるが、その後も「独身組」と「結婚組」で、違う立場に分かれた上でのトークが続いた。

そして、そのうちの誰もが、口ではお互いを羨ましい、憧れると言いながらも、本心からその思いを持っているようには感じられなかった。

「こちらの立場の方が幸せだ」という見えない争い、「自分が持っているもの」を頑なに守ろうとする自意識がそこにあったように思えてならなかった。

いや、これについては私があまりにもひねくれたうがった見方をし過ぎているのかもしれない。

本当は、みんな単に思いや感想を口にし、素直に相手の立場を尊重していただけなのかもしれない。

しかし少なくともその場に居合わせた限りは、いわゆる「マウンティング女子」のやりとりを目にした思いに駆られ、背筋が寒くなったのだった。

 

人は「自分が持っているもの」と「相手が持っていないもの」により比較をする。

そこで自分が持っているものに誇りを持ち、プライドを満たそうとする。

「同じものを持っているもの同士」の冷戦に近い争いはいつも身の回りにあるし、

「違うものを持っているもの同士」の互いに大事なものを守り合う戦いもよく見られる。

これらの争いはともすると見苦しくて滑稽なものであるが、プライドや自尊心を持つことは人間ならではの個性だ。

そこから繰り広げられる人間模様は、なかなか面白いし、プライドが活動のエネルギーになることもあるから捨てたもんじゃない。

人はこれからも比較をして、互いに競い続ける生き物なんだろう。

そんな哲学に浸った年の瀬。

私も小さくて不毛なプライドを大切にして今年も頑張って行こうと思う。

Facebookはもはや一部のKYのためのツールに成り下がっている

Facebookを見て不快感を覚えるようになったのは今に始まったことじゃない。

イタイ男の仕事自慢や既婚女子の子供自慢にはもううんざりだ。

自己アピールや承認欲求を満たすための記事なんて見たくないし、あなたが昼に何を食べたかなんてことも興味がない。

海外行ってきます!という空港での無意味なチェックインもいらないし、政治や経済について持論を語るのは居酒屋でやってほしい。

そもそもFacebookは徐々に、一部のKYの人のためだけのものに成り下がっている気がする。

仲の良い友人たちや好意を持つ同僚、先輩の投稿はFacebookからすっかり消えた。

自分自身も、文句を言いながら時々覗きには行くものの、投稿はここ数年ほとんどしていない。

Facebookに投稿する人が少なくなったのは、Facebookが「普及しすぎたこと」に原因があると思う。

Facebookはあまりに一般的なコミュニティになりすぎて、もはやそこにプライベート感は無くなった。

投稿した情報は、親しい友達だけではなく、飲み会で一度だけ会った人、会社の同僚や上司、取引先や遠い親戚にまで拡散されていく。

こうなると、Facebookはもはや公の場だ。

そこで公開した内容は自分の知人、あらゆる人の目にさらされる。

普通の人はこのような環境で、気軽に投稿することをためらう。

Facebookがユーザーを増やすに連れ、そこで情報を発信する時の息苦しさは増している。

そこで、躊躇なく自己アピールや日々のどうでもいいことを投稿できるのは一部のKYだけだ。

この手の人は元がKYであるがゆえ、周りからの目という意識が無いので、投稿もイタイ内容が増える。

自慢話や中身の無い話を見たら、周りがどう思うかという配慮はそこには無い。

Facebookのユーザーが増えたことで、KYの人しか投稿しないようになり、その投稿がイタイので普通の人はFacebookから距離を置くようになり、益々一部の人しか投稿しなくなるという悪循環にもはやFacebookは陥っているのではないか。

ここまで言うと、だったら使わなきゃいいだけの話だということになるが、少ないとはいえ興味ある投稿があることは確かだし、遠い友人の近況がわかって面白いこともある。

ただ、これらのメリットよりも、KYで汚染された情報に不快感を覚える要素の方が大きくなったなら、その時はFacebookから卒業することになるし、そのタイミングは刻一刻と迫っているように思える。

Facebookは人を繋ぐインフラとしてしばらくは残り続けるだろうが、もはやとっくにクールで魅力的なツールでは無くなっているのかもしれない。