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外資系リーマンのゆるコミット

必ずやります、たぶんそのうち

外資系を選ぶことで避けることが出来る一番のリスク

以前も、「外資系企業で働くことのリスクは巷で思われているより高くない」ことを書いた。

yurucommit.hatenablog.jp

最近改めて、外資系企業の魅力について感じることがある。

それは「極端にダメな人がいない」ということである。

「ダメな人」だなんてすごい傲慢な表現だけど、やっぱり世の中にはいるんですよ、やる気もスキルも著しく低い人たちが、、

別に仕事への価値観や姿勢は人それぞれだし、楽してテキトーに毎日を過ごすことはそれはそれでいい。

でも、成長著しい若手がこういった人たちと強制的に働かせられるのは大変もったいない。

外資系企業を選ぶことによって、高い意識を持った若いビジネスマンが「成長機会を奪われるリスク」を避けることができるかもしれない。

一般的に外資系企業は優秀な人が多い、とはよく言われる話だが、ここでは「優秀な人が多い」という点ではなく、「ダメな人がいない」ことの利点について掘り下げてみたい。

外資系企業と一口に言っても社員のスキルレベルは会社によってまちまちだが、共通して言えるのは極端にパフォーマンスが悪い人は会社にほとんどいないということだ。

多くの日系企業では、特に出世競争に敗れた中高年層を中心に、残念ながらスキルも意欲もなく「この人はやばい」と思うような人が一定数存在する。

それらの人達は、元々の能力が低いというより、長いサラリーマン人生の中で、厳しい経験をしてこなかったとか、ぬるま湯につかりすっかり身も心も緩んでしまったという場合が多い。

昔どんなにやる気に満ち溢れた若いビジネスパーソンだった人も、数十年という時間の過ごし方を間違えれば、徐々にやる気と能力は低下していく。

外資系企業ではそういったビジネスマンとして枯れてしまった人達というのがほぼ存在しない。

理由はもちろん、そういった人達は自然と淘汰されるからである。

明確な役割と価値をもたらしていない、モチベーションが著しく低いと判断されると会社にはいられない。

偶然紛れ込めたとしても、周りからの風当たりが次第に強くなり、途中でクビになるか本人が会社に居づらくなり自然とどこかに去っていく。

 残った人は自然と、最低限の意欲と能力を持った人達ということになる。

 

このことは、ビジネスマンとして成長期にある若手が外資系を選ぶ大きな理由になりうる。

それは、「ダメな人と働かなければならない」という「ハズレくじ」を引く確率が非常に低いからだ。

もともと、意識の高い学生が会社を選ぶ理由として「優秀な人と働きたい」ということを上げるのは定番になっているが、実は「優秀な人と働けるかどうか」ということよりむしろ、「ダメな人と働かなくて済むか」ということの方が健全な社会人としての成長を考える上で、何倍も重要である。

思うに、元々能力があり意欲もある人というのは、周りに優秀な人がいなくても自分で勝手に伸びていく。

配属された部署に尊敬できるような人がいなかったとしても、他の部門で手本になるような人を見つけたり、お客様からの叱咤激励を受けながら成長のヒントを得ていくことが出来る。

「優秀な人が周りにいない」ことより、「ダメな人と強制的に働かせられる」ことの方が問題はより深刻である。

モチベーションやスキルが極端に無い、自分で行動はしないのに人の批判ばかりする、人の足を引っ張ったり士気を下げるような言動を繰り返す。

このように仕事への姿勢や人間性に問題がある人がもし上司や先輩になってしまうことは、能力と意欲がある若手にとって大変大きなリスクである。

 

まず問題なのは、ダメな人に仕事のレベルを合わせるという不毛な気遣いをしなければならないことである。

特に多くの日本企業では年齢による上下関係がことさら重視されるため、能力のある若手のワンマンプレーは強い反発を受けやすい。

周りとうまくやっていくためには、ダメな人たちにある程度気を使って仕事をしなければならないが、成長期にある若手にとってこのようなブレーキは無駄以外の何物でもない。

世間には自分より凄い人達がゴマンといて、彼らに追いつくために毎日成長しなければならない若手が、何が悲しくて枯れたおじさん達に気を遣って足を止めなければならないのだろう。

例えば、Jリーガーの中に一人、二人中学生が混ざっていたとしたら、そのメンバーにだけはゆっくりとしたパスを送らなければならない。

そんなことをしているうちに、一流の選手が求めるパスが出せなくなっていく。

ダメな人と働くことはそんなリスクを抱えることを意味する。

そして、何より怖いのがそのモチベーションの低さに自分も知らず知らずのうちに毒されてしまい、その人たちと同質化してしまうことだ。

周囲の影響というのは、自分が思っているほどに強く、また多くの日本企業の場合、協調性や連帯意識が重視されるので、知らず知らずのうちに危機感の無いゆったりしたペースに自分も巻き込まれてしまう。

適当に仕事をして、立ち飲み屋で延々と会社や上司の愚痴を言っているような人達と時間を過ごしていれば、いつしかそれが心地よくなり、ましてそうしてみんなと仲良くしている方が会社から評価されるなら、それでいいやと思ってしまうのも仕方がない。

 

もし、最もビジネスマンとして成長できる20代をこのような「ダメな人たち」と過ごしてしまったら、そこから一念発起したとしても、もう一流の環境で、一流の人達と仕事をすることは非常に難しいと言っていい。

厳しい環境にいて修羅場をくぐってきた人達は、相手がどれだけの意欲を持って仕事をしてきたかをすぐに見抜く。

この人は十分な経験を積んでいない、危機感を持って仕事をしてこなかった、と思われたら対等な立場で相手をしてもらうことはできない。

「ダメな人」と一緒に時間を過ごすことは、優秀な若手の未来を潰してしまうほど非常に大きなリスクなのである。

このようなリスクは、成長を考えて大きく成功したいと考える若手ビジネスマンにとってはぜひ考えて頂きたいポイントである。

自分が定年を迎えるまで、今いる企業が存在しているかなんて誰にもわからない時代。

企業の規模や目先の安定にとらわれない職場選びが益々重要になってくる。

 

先輩命令でやらされた後輩のナンパが成功して場がしらけた話

後輩が先輩からイジられたり、無茶ぶりされたりするのは、我が国の伝統的な慣習と言える。

全国の後輩クン達は、外見やキャラクターを笑いのネタにされることもあれば、飲み会で大量の酒を飲まされたり、一発芸をやらされたりして日々悪戦苦闘する。

このような「後輩いじり」の定番として、「後輩や若手に女の子をナンパさせる」というものがある。

お酒の席や、その後の帰り道などで悪酔いした先輩軍団が、「おい、お前あの子達に声かけてこい!」と仕事の
勢いさながらの指令を出し、後輩はしぶしぶ玉砕覚悟で突進していく。

後輩クンが戸惑いながらアタックする姿を見て、歳を重ねて、すでにナンパする機会や度胸を失った先輩達は、面白さ半分、優越感半分で、その光景を頬をゆるめながら見つめる。

一方後輩クンとしては、いくら先輩の命令とはいえ、女の子達の前でカッコ悪い所は見せたくない。

幸い、外見やトークにはそこそこ自信はある。

仕事ではおっさん達の下僕として毎日コキ使われているかもしれないが、若さとルックスではあいつらには負けやし ない、という自負もある。

そんなプライド、闘争心を胸に秘め、突撃!

 

トークを頑張る、愛嬌を振舞う、女の子を褒める、ギャグを飛ばす!

 結果…

見事、LINEをゲット!!!

なんなら、その場で飲みに行けそうな雰囲気すらある。

「勝った!俺は期待に応え、成果を上げたのだ!」

達成感と満足感で一気にテンションが上がる後輩クン。

後ろを振り返ればそこには先輩達の目。

結果を出して戻った自分に、賛辞と賞賛の言葉が浴びせられるに違いない。

そう、初めて仕事で大きな商談をまとめたあの時のように。

期待に胸を膨らませる後輩クン。

早足で先輩軍団の輪に帰還し、「あの子たち、一緒に飲んでもいいって言ってますがどうしますか?」と声高らかに成果を告げ、輝いた目をして先輩たちの返答を待つ。

ところが、先輩たちの表情は明らかに曇っている。

さっきまでのバカ騒ぎが嘘のようにしらけている。

そう、先輩たちは別に後輩クンのナンパが成功することなど望んでいなかったのだ。

あっけなくフラれて、恥をかいて、戻ってきた後輩をいじり倒す。

それが彼らが求めていた結末だった。

「今日はそんな感じじゃないからいーでしょ。お前行って来いよ」

そっけなく言う先輩軍団の一人。

結局、後輩クンも気まずくなってその場を静かに後にした。


これは先日会社の飲み会帰りに、実際にあった出来事である。

男というのは実に難しい。

後輩は確かにかわいいし、自分が仕事を教えた後輩が仕事で成果を上げている姿を見るのは嬉しいものだ。

しかし、どこかでライバル心もある。

仕事だって、今は自分の方が出来るとは分かっていても、いつ追い抜かれるかは分からない。

ましてやプライベート、特に対女性関係において、男性的な魅力としては年々外見も勢いも衰えてる自分より、後輩クンの方が若い女の子にモテることもあるだろう。

その事実、現実を少しでも見せつけられたようなこの一件は、先輩軍団にとって全く面白いおかしい物では無かったのである。

そうでなくとも、後輩をいじるという目的でナンパをさせているのに、彼がモテてしまっては元も子も無い、つまらないだけだ。

女性の嫉妬は怖いとよく言うが、男の嫉妬も中々のものである。

実際に、女性にモテるイケメンが出世しにくいという話も聞いたことがあるが、これは何も女性関係に限った話では無く、仕事が出来すぎることによって上から疎まれることも会社ではよくある話だ。

ここで、全ての後輩クン達に伝えたいのは、「後輩たるもの常に道化であれ」ということだ。

本当は、先輩軍団より君たちの方が、女性との出会いも豊富で、女性から見て魅力もあるのかもしれない。

しかしそんな事実を先輩の前で突きつけるようなことはあってはならない。

後輩たるもの、原則は先輩や上司を立て、常に彼らに満足感を提供しなければならないのだ。

特に、若い時からあまり女性に縁が無かったような人に対してはなおさらである。

昔からモテなかった。そのコンプレックスを逆なでするような後輩に、愛情を注げるわけはない。

男はプライドの生き物である。

そしてそのプライドは、あまりにも小さなことで、あっけなく破綻する。

このことは特に会社の上下関係において気を付けなければならない、極めて重要な真理だ。

「後輩のナンパが成功したら場がしらけた一件」はそんなことを改めて実感した一幕だった。

お金があってこそ、お金で買えない物の価値に気づくジレンマ

人生にはある程度のお金は必要だが、お金で買えない物こそが人生にとってより重要である。

こんな当たり前のことに気が付くまで、かなり時間がかかった。

世の中、お金では買えない大切なものが実に多い。

家族や友人との人間関係や、持続的な健康、やりがいのある仕事に、没頭できる趣味。

お金で買えないものこそが人生に幸福をもたらしてくれると今では強く思う。

特に良好な人間関係は、豊かな人生を送るために極めて重要で、それを裏付けるこんな研究も世界で行われている。

(from TED TALK)

www.ted.com

 

自分が、お金で買えない物が重要だと思えるようになったのは、皮肉にも、ある程度お金が稼げるようになったからだ。

別にいやらしい自慢をするつもりではなく、運良く仕事で成果を出すことが出来て、その年ばかりはそれなりの収入を得られたことがある。

外資系ならではの一過性の稼ぎなので、将来の保証など全くないが、とにもかくにもある程度のお金を得ることが出来た。

そうしてお金を手にすることによって、お金で実現できることなど、実はたいしたことでは無いと気が付いてしまったのだ。

これは自分にとって非常に幸運なことだった。

何しろ、ある程度のお金を得ることによって、お金の呪縛から解き放たれることが出来たからだ。

仕事を必死に頑張ってきて、ある程度お金を稼げるようになると、昔から欲しい欲しいと憧れていたモノやサービスを手にすることが出来るようになった。

高級ブランドのスーツや時計、ハイスペックのIT機器や家電製品、有名店の豪華ディナーに海外リゾート地でのバカンス。

いずれも学生や社会人になり立ての頃は、勝ち組の象徴としていつかは実現したいと夢描いていた贅沢を、幸運にも概ね経験することが出来た。

しかしそれらは、一度手にしてみるとほとんどが、自分にとってさほど重要でないものばかりだった。

一瞬の満足感や喜びは得られるものの、長く深い幸福感をそこから得られることは無かった。

むしろ、生活レベルが上がり贅沢を経験すればするほど、それに対しての有難みや喜びは薄れていくばかりだ。

確かにお金はあるに越したことは無い。

快適な住居の中で便利な生活をし、美味しい物を食べ、旅行や観光で経験の幅を広げて、家族にも余裕のある暮らしを提供できる。

お金があることによって、日々の生活が充実することは明らかだ。

しかし一方で、お金で得られる人生の満足感なんてものはたかが知れている。

お金は、所詮モノやサービスを消費するための手段だ。

モノやサービスは、短期的な快楽や利便性を得るためには必要だが、それらがあれば人生が全て満たされるというものでも決して無い。

お金さえあれば、絶対的に幸せな人生が送れるというのは間違いだ。

例えいくらお金があったとしても、健康や、家族や、友人や、熱中できる仕事や趣味といった「お金では得られない物」が欠けている人生は不幸だ。

反対に、例えお金がそこまで多くは無かったとしても、これらの重要な物を持ってさえいれば、強い満足感を得られることは可能だと思う。

それくらい、「お金で得られない物」は非常に重要だ。

にもかかわらず、お金が放つ魔力は、その事実を人から忘れさせるほどにあまりにも強い。

人は往々にして、お金を得るために、「お金で得られない物」を犠牲にしてしまう。

収入を得るために仕事に没頭して家族との時間を犠牲にしたり、お金のために友人を裏切ったりなんていう話は日常茶飯事だ。

お金への呪縛が、時に人を不幸にしてしまう。

そして皮肉なことに、お金の呪縛から解き離たれるための一番有効な方法は、必要十分なお金を実際に得ることだ。

お金を得て、お金でやりたいことをおおよそやり尽くし、欲求を解消しない限り、中々お金の魔力からは逃れられない。

そうしてお金に対して過度な幻想や期待を持たなくなることによって、お金で買えない物がより輝いて見えるものだ。

お金を著しく稼いだ経営者は社会貢献に注力するようになり、また富裕層の家に育った子供は、お金より自身の信念のために生きるという。

お金を得ることによってこそ、見えてくる景色というものもそこにはあるのだろう。

彼らのような階層の人達とは比べ物にはならないが、幸運にも自分が満足できるだけの収入を一時的にでも得ることが出来た。

そこで見えてきた、お金で買えないものの価値をよく頭に刻みつけて、優先順位を間違えないように人生を送りたいものである。

新聞記事のスクラップはどうしても時代遅れの習慣に思えてしまう

先日、出張先に向かう新幹線の車中で「新聞記事のスクラップを張り集めたノート」を大事そうに見返している40代半ばと見られるビジネスマンがいて、衝撃を受けた。

この時代にまだそんな習慣を持っている人がいることに驚いたと同時に、失礼な話ではあるが、その方のITスキルの低さ、変化対応力の無さを勝手に推し量ってしまった。


私も社会人なり立ての頃、上司や先輩から「新聞記事のスクラップ」を薦められたことがある。

ビジネスマン御用達である「日経新聞」から重要な記事、興味を持ったトピックを切り抜いて保管し、後で見返して役立てるという自己啓発とも言える習慣だ。

当時は私も、せっせと新聞を切り抜いてファイルに保管しては、気まぐれにそれを眺めたり、読み返したりしていた時期があった。

あれから十数年。

今や周りで「日経新聞をスクラップしている」なんていう話を聞くことはなくなった。

Webコンテンツの充実やスマホの普及で、新聞に頼らずとも様々な方法で情報を得たり、保存しておくことが可能になったからだ。

もはや、新聞を紙で読んでいる人も少なくなってきたし、ましてやその記事をわざわざ切り抜いて保管している人なんて絶滅危惧種に近いんじゃないか。

もちろん、全く新聞を読まないより、新聞をしっかり読み込んで、その記事を何度も見返すような人の方が、経済やビジネスへの感度や意欲は高いのかもしれない。

また、切り抜き記事を集めることで、コレクション願望が満たされたり、私には想像もつかない点でメリットがあるのかもしれない。実際、この時代だからこそあえてアナログのスクラップを推奨する経済人、著名人もいるようだ。

しかし、今のIT全盛時代における「新聞のスクラップ」は、見る人が見れば「ITリテラシーが低い」「効率が悪い」と思われても仕方のない行為だ。

ビジネスの情報収集や勉強のやり方は、個人のやりやすいように自由にするべきだが、いまどき紙の新聞をノートに張り集めることが「効率的」で「効果的」なものだとはどうしても思えない。

紙のスクラップをコツコツ集めている姿は、他に便利で効率的な情報整理のやり方を「知らない」か、その方法を「使いこなせていない」ように見えてしまう。

未だに音楽をMDプレイヤーで聞いていたり、携帯電話を持っていなかったりしたら驚かれるように、技術やITの進化には現代人として最低限対応していかなければ、変化に疎い時代遅れの人とみなされる。

そして、個人的にはあまりこういう人たちと仕事をしたいとは思わない。

もし、シニアのビジネスマンでこのような昔ながらの習慣を続けている人がいたら、私のようなひねくれた見方をする人間もいることを知って頂きたいし、たとえ50代、60代でもipadKindleEvernoteDropboxを使いこなしている人がいることを意識してもいいと思う。

 

科学や技術の進歩と共に、時代は変化している。

昔ながらの方法が時に有効なこともあるが、それにこだわってばかりでは人間は進化しない。

石が無くなったから石器時代が終わったわけではない。

石が残っているからといって、大事に石器を使っていてはいつまでも原始人のままだ。

全てを先端の技術で固める必要は無いが、大きな時代の変化、技術の進歩には何歳になっても対応していきたいものである。

プライドが高い者同士による、プライドを守るための静かで醜い争い

年末年始、しばらく顔を合わせていなかった友人たちと久しぶりに再会する機会が多かったが、そこで何度か「プライドを守るための戦い」を目にした。

人は自分と他人を比べたがる生き物だ。

人と比べて劣っていることにコンプレックスを感じ、人より優れていることには優越感を覚える。

特にプライドが高い者同士が出合えば、相手より優れている所を見つけてはプライドを満たそうとする心理が働く。

男は仕事や、収入や、地位を比較しあい、

女は恋愛や、容姿や、幸福度で競い合う。

「あいつより俺の方が稼いでいて、仕事も充実している」とか、

「いつまでも独り身のあの子と比べて、私は結婚もして子供もいて幸せだ」というように、

たとえ意識せずとも他人と自分を比べている。

相手とあまり付き合いが無い場合はもちろん、親しい友人の間であっても、いや、むしろ親しい間柄の方がなおさら比べることが多いかもしれない。

親しい友人の間であれば、いかに関係を崩さずにプライドを満たすかという「静かで醜い」争いが繰り広げられていく。

 

そこで、冒頭のくだりだ。

年末の、とある飲み会は大学時代の友人たち、男女数人でのものだった。

男は業種や規模は違えどそれなりの仕事に就き、女はバリバリOLや専業主婦まで様々な道を歩んでいた。

お酒もほどよく回ったところで、ある友人男性Aが、

「俺、今年仲間と起業してさ、六本木にオフィス構えてITベンチャーやってる」

と仕事の近況を報告し始めた。

その口ぶりには、リスクを取り会社を興した者特有の、誇りと自信が感じられた。

Aの仕事内容を少し聞いた後、隣に座っていた大手金融機関に勤める友人男性Bが、

「すげーじゃん!起業は中々リスクがあって大変だよな。俺、ITベンチャーやってる社長何人か知ってるから誰か紹介しよっか?」

という業界人脈をアピールしつつの、やや上から目線的なサポート提供を申し出たのだ。

Aは、話の腰を折られたのが少し不満そうに、「おーそうだな。まあ今のとこ仕事は好調だし、サラリーマン時代よりも自由にやれて楽しいよ。俺も社長の知り合いはそこそこいるから、またなんかあった時頼むわ」

と、会社勤めをあえて「サラリーマン」と表現しながら、そっけない態度で対応した。

束の間、そこに微妙な空気が漂ったのを男たちは敏感に察知した。

そして誰が始めるとも無く、すぐさま学生時代のバカ話、女性関連の下世話な話題へとトークの舵が切られていった。

 

みんなそれぞれ、自分の仕事にはプライドを持っている。

一流企業に入ったり、起業したりするような奴ならなおさらだ。

そのプライドを傷つけたり否定することは、例え友人同士でも、いや友人だからこそあってはならないのだ。

友人関係を円満にするためには、本当の争いになる前に戦いを避けることが必要だ。

男たちはそのことを十分わかっている。

成果を誇り、アピールしたいが、衝突は避けたい。

そんな自尊心と気遣いの合間で男たちの会話は絶妙なバランスを保っているのだった。

 

一方で、女性たちは「独身組」と「結婚組」で明らかに立場が分かれて、そこにも確かに「プライドを守る戦い」が起きていた。

友人女性Cは、渋谷の某Web関係の会社に勤めている独身キャリアウーマンだ。

仕事は芸能界とも関わりがあり、なかなか華やかなモノらしい。

Cは「最近立ち上げたサービスのプレスで、ジャニーズと仕事したんだけど○○って実物は足が短くて、全然かっこよくなかったよ」

と、話題性のあるトークを振り込んだ。

芸能人をいじることによって、嫌味の無いよう表現はされているものの、その口ぶりは自分が華やかな仕事をしているという「ドヤ感」に溢れていたものだった。

Cのオブラートな「仕事アピール」に、積極的に感嘆の声や相槌を打つ女子たち。

たいして興味が無い人もいただろうが、相手の話を上手く受け入れる(ふりをする)女性のスキルには脱帽だ。

Cの話が一通り終わった後、友人女性Dが口を開く。

彼女は2年前に結婚して仕事を辞め、今は一児のママである。

「華やかな仕事で楽しそうー!私なんて結婚してから旦那と子供の相手ばっかりで大変だよ。仕事してた頃が懐かしいなー」

文字で表現すると単なる感想と近況であるが、その口ぶりは「まだ働いてるなんて大変だね」と言わんばかりの嫌味とも取れる言い方にも感じられた。

Dは「でも家族円満で幸せそうじゃーん。まあ私は結婚はまだいいかな。仕事がもう少し落ち着いてからで。」

と、誰も聞いていない自身の結婚願望を補足しながらコメントしていた。

このやりとりは会話の一コマであるが、その後も「独身組」と「結婚組」で、違う立場に分かれた上でのトークが続いた。

そして、そのうちの誰もが、口ではお互いを羨ましい、憧れると言いながらも、本心からその思いを持っているようには感じられなかった。

「こちらの立場の方が幸せだ」という見えない争い、「自分が持っているもの」を頑なに守ろうとする自意識がそこにあったように思えてならなかった。

いや、これについては私があまりにもひねくれたうがった見方をし過ぎているのかもしれない。

本当は、みんな単に思いや感想を口にし、素直に相手の立場を尊重していただけなのかもしれない。

しかし少なくともその場に居合わせた限りは、いわゆる「マウンティング女子」のやりとりを目にした思いに駆られ、背筋が寒くなったのだった。

 

人は「自分が持っているもの」と「相手が持っていないもの」により比較をする。

そこで自分が持っているものに誇りを持ち、プライドを満たそうとする。

「同じものを持っているもの同士」の冷戦に近い争いはいつも身の回りにあるし、

「違うものを持っているもの同士」の互いに大事なものを守り合う戦いもよく見られる。

これらの争いはともすると見苦しくて滑稽なものであるが、プライドや自尊心を持つことは人間ならではの個性だ。

そこから繰り広げられる人間模様は、なかなか面白いし、プライドが活動のエネルギーになることもあるから捨てたもんじゃない。

人はこれからも比較をして、互いに競い続ける生き物なんだろう。

そんな哲学に浸った年の瀬。

私も小さくて不毛なプライドを大切にして今年も頑張って行こうと思う。

Facebookはもはや一部のKYのためのツールに成り下がっている

Facebookを見て不快感を覚えるようになったのは今に始まったことじゃない。

イタイ男の仕事自慢や既婚女子の子供自慢にはもううんざりだ。

自己アピールや承認欲求を満たすための記事なんて見たくないし、あなたが昼に何を食べたかなんてことも興味がない。

海外行ってきます!という空港での無意味なチェックインもいらないし、政治や経済について持論を語るのは居酒屋でやってほしい。

そもそもFacebookは徐々に、一部のKYの人のためだけのものに成り下がっている気がする。

仲の良い友人たちや好意を持つ同僚、先輩の投稿はFacebookからすっかり消えた。

自分自身も、文句を言いながら時々覗きには行くものの、投稿はここ数年ほとんどしていない。

Facebookに投稿する人が少なくなったのは、Facebookが「普及しすぎたこと」に原因があると思う。

Facebookはあまりに一般的なコミュニティになりすぎて、もはやそこにプライベート感は無くなった。

投稿した情報は、親しい友達だけではなく、飲み会で一度だけ会った人、会社の同僚や上司、取引先や遠い親戚にまで拡散されていく。

こうなると、Facebookはもはや公の場だ。

そこで公開した内容は自分の知人、あらゆる人の目にさらされる。

普通の人はこのような環境で、気軽に投稿することをためらう。

Facebookがユーザーを増やすに連れ、そこで情報を発信する時の息苦しさは増している。

そこで、躊躇なく自己アピールや日々のどうでもいいことを投稿できるのは一部のKYだけだ。

この手の人は元がKYであるがゆえ、周りからの目という意識が無いので、投稿もイタイ内容が増える。

自慢話や中身の無い話を見たら、周りがどう思うかという配慮はそこには無い。

Facebookのユーザーが増えたことで、KYの人しか投稿しないようになり、その投稿がイタイので普通の人はFacebookから距離を置くようになり、益々一部の人しか投稿しなくなるという悪循環にもはやFacebookは陥っているのではないか。

ここまで言うと、だったら使わなきゃいいだけの話だということになるが、少ないとはいえ興味ある投稿があることは確かだし、遠い友人の近況がわかって面白いこともある。

ただ、これらのメリットよりも、KYで汚染された情報に不快感を覚える要素の方が大きくなったなら、その時はFacebookから卒業することになるし、そのタイミングは刻一刻と迫っているように思える。

Facebookは人を繋ぐインフラとしてしばらくは残り続けるだろうが、もはやとっくにクールで魅力的なツールでは無くなっているのかもしれない。

LIXIL社長交代の報道に、日本式の凝り固まった「働き方」への価値観を見た

GEから鳴物入りで入社し、LIXIL統合後の事業見直しや海外展開を中心にしたM&Aなどで、手腕を奮って来た藤森社長の交代が、先日発表された。

 

www.nikkei.com

「LIXILグループは21日、藤森義明社長兼最高経営責任者(CEO、64)が2016年6月に退任し、工具通販大手のMonotaRO(モノタロウ)の瀬戸欣哉会長(55)が社長に就く人事を発表した。藤森氏は米ゼネラル・エレクトリック(GE)出身の「プロ経営者」として注目された人材で、11年に就任した。だが、買収した海外企業との統合作業は道半ばで、十分に結果を出したとは言いがたい中での退任となった。」(記事抜粋)

私自身が外資系の価値観にすっかり染まってしまったためなのか、ここで報道されている記事の表現を見て、「働き方」や「キャリア」における、日本式の凝り固まった考え方を見て取ってしまう。

1.「道半ば」

まず、就任から5年目、このタイミングでの交代を「道半ば」と、まるで責任を放棄したかのような言い回しをされていることだ。

藤森社長のような外資系出身者にとって、5年で次のステップを求めて転職することは別に自然なことである。

例え、結果が十分で無かったとしても、5社もの会社が統合して出来たLIXILを束ねて、リーダシップを取って事業再編をリードしていくのは並大抵のことでは無い。

そんな重責を負いながら、様々な変化を会社にもたらして多くの意思決定を行い、5年を区切りとして次のステップへ進んでいくことに「道半ば」という言葉を使うことには違和感がある。

私が以前いた会社では9ヵ月で社長が変わってしまったこともあり、さすがにここまでいくと「道半ば」どころか「道に足を踏み入れた」レベルでの退任と言えるが、外部から来て5年も社長をやれば期間としては一段落と言えるのではないか。

スティーブジョブズ氏のような創業者が長く経営を担ったり、ルノー出身の日産カルロスゴーン氏のような長期政権も当然見られるが、外資系では3年で社長交代なんてこともザラだ。

今回の退任については、別の報道で「買収失敗の責任を取らされた」とか「元社長の潮田氏が引導を渡した」とか好き勝手なことが書かれているが、藤森社長からすれば5年という期間は「そろそろ頃合い」というタイミングだったのだろう。

 2.「唐突な交代劇」

「唐突な交代劇」という表現もよくわからない。

社長交代に「そろそろ交代しますよー!」なんて事前の告知なんかあるわけない。

トップの人事なんて、外部はもちろん一般社員だって直前まで知らされないのが普通だ。

前ぶれの無い社長交代に対してこのような記事の書き方になってしまうのは、「普通、何か理由が無ければ社長交代はしないものだ」という思い込みが、報道する側に強くあるように思える。

多くの日系大企業の社長交代は、高齢による世代交代か、業績不振や不祥事の責任を取った形の辞職が多いから、そんな固定観念が自然と生まれてしまうだろう。

現場の一般社員だって特に理由が無くとも異動や転勤があるように、社長だって一定期間で交代するケースがあっても別にいい。

その間に、誰もが納得する結果を出せない限りは社長を辞めてはならない、なんてことも別に無い。

ご自身の中で一定の区切りがついたと思えば、次の人に使命を託せばいい話だ。

「結果が出るまでなんとしてもやる!」と本人のプライドでポストに居座られて、時に迷惑な場合だってある。

例えば、スポーツの世界でもプロ野球の監督を5年続ければ長い方になるし、W杯の日本代表監督は毎回変わっている。

それと一緒で、トップが一定のサイクルで変わるのはむしろ会社としてワンマン経営に陥っていない証拠でもある。

3.「プロ経営者」

これは藤森社長に限った話では無いが、特にMBAホルダーの外資経験者を「プロ経営者」と一括りにして表現することもしっくりこない。

藤森社長の場合は自称しているふしもあるので、一方的な報道とは言えないかもしれないが、本来、経営者に素人もプロも無いのではないか。

外部から来た人材をプロと呼び、生え抜き社長をプロでないとするなら、生え抜きの経営者に失礼な話だし、「プロ」という言葉を中途経営者への皮肉まじりに使うとしたら、それこそ良い表現とは言えない。 

もし「プロ」という言葉を文字通り「専門家」という意味で使うとしても、社長業を渡り歩く人材が、生え抜き経営者よりも経営の「専門家」であるかというと、必ずしもそうではない。

経営者としての能力に、生え抜きか中途かは関係が無いはずだ。

そもそも創業家の二代目や起業家を別にすれば、中途入社で社長に就任した人も、何もある日突然経営者になったわけでは無い。

社長就任の前に、別の会社でマネージャー、部門責任者と役職を重ねてトップに上り詰めたわけで、その意味では生え抜きの社長とキャリアのプロセスは変わらない。

様々な会社で社長業をこなせば経験の幅は増えるであろうが、それを持って「プロ」か「プロでないか」と論じることは出来ない。

ましてやMBAホルダーだからと言って経営の「プロ」なんてことは言えるはずがない。

 「プロ経営者」等という表現は、普通は生え抜きがトップになるべきだ、という古い慣習や思い込みに縛られたレッテル張りと言えるのだ。

 古くからの慣習に凝り固まった「働き方」への価値観にはうんざりだ

5年での社長交代を「道半ば」の「唐突な交代劇」と表現し、外部から来た社長を「プロ経営者」と括る報道から、働き方への凝り固まった価値観を見て取れる。

 もういい加減、「一つの場所で長く働き続けることが美徳だ」とか「責任を果たすまで役割を全うすべきだ」という古くからの価値観に基づいて働き方を論じるのはやめにしないか。

 元はと言えば、日本の労働市場があまりにも硬直的であることに問題がある。

 今よりもっと会社同士での人材の行き来が活発になっていいし、自分の意思で自由に仕事を選べるようになるべきだ。

 もちろん長く働くことを選びたい人はそうすればいいが、そうでない場合に、今の日本はあまりにも選択肢が少なすぎる。

 一日も早く、他社でキャリアを積んでトップに立った人を「プロ経営者」などと区別して呼ぶことのない、柔軟な働き方を良しとする考え方へと日本全体が変わっていってほしいと思う。